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年頭に語る(平成31年) 小さな挑戦の種(平成31年01月22日加筆)

             小さな挑戦の種を探す

新年から2週間経ったというのに新年の挨拶が書けない。毎日その気になってキーボードの向かうのだが書けない。頭の中が空っぽだ。毎年心にもないことを書き続けてきたので流石に私の心に見透かされ、あきれ果てられたかな。そうに違いない。早速去年の年頭所感をみてみました。

去年は「自分の人生のファン」になると言うことを書きました。が、どうだったのでしょうか。大いに疑問です。

ファンになるどころか、衰えるばかりの自分に対して怒りを持って対処していた。叱責はしなかったが、慰撫することも無かった。案外冷たかった。少なくとも「よく頑張った」「よく頑張った」とは声を掛けてやれなかった。

今年は大きな目標は掲げない。見苦しいだけだ。そんな想いが大きい。そこで、八百津ライオンズクラブ新年会の挨拶用に準備したものをチョットだけ修正して今年の最初の投稿とする。

古稀プラス1歳(満70歳)の誕生祝い有難うございました。9年前にはライオンズクラブの会長でした。「還暦プラス1歳」(満60歳)で新年の会長挨拶をしたことを思い出します。昨年の奉仕活動としては全血400ml献血51回目を9月に済ませました。4ヶ月間隔で年3回ですから10年で30回です。かなりその気になって多治見の献血センターに通いました。感謝状とクリスタルの杯を頂きした。4献委員を長くやらせて頂いたお陰だと感謝しております。達成感、満足感あり。12月の母校八百津中学校の薬物乱用禁止教室では、発言の機会を頂きました。

ライオンズ歴は28年目です。入会した時は、相互電器の多田さんが会長でした。河方恭平ゾーンチェアマンからは映画会を任され、数年間、責任者を務めました。伊佐治・酒向両先生にはライオンズ・マンとして開業医としての在り方を何時も教えて頂きました。そして、お陰様で30年間、地域医療に携わることが出来ました。よく頑張って来れたなあぁという安堵感です。 今年の10月には、佐藤クリニックの満30周年を迎えます。「平成と共に歩んできた」佐藤クリニックです。晩節を汚すよりは今上(きんじょう)陛下と共に、院長職を禅譲とも考えましたが、陛下は85歳です。私は、70歳です。もう少し頑張ります。昨年の天皇誕生日の一般参賀に参加し、今上陛下のご尊顔を拝し、肉声を拝聴してそんな想いを新たにしたところです。

趣味では

ランニングは歩くより速いぐらいになってしまいましたが、フルマラソンは158回を記録しました。200回は諦めました。でもまだ頑張ります。ウルトラ100キロマラソンは机上の空論では完走出来そうですが、イザ走り始めると時計の針が必要以上に早く進んでしまうので当惑してしまいます。四万十ウルトラ100キロを完走して「この世の中にたった1枚だけのTシャツを手に入れたい。」ドラゴンズは、Bクラス6年連続という悲しい状況ですが、昨年の松阪大輔、今年の根尾昴効果で何とかAクラスに戻って欲しいです。優勝の予感はしませんが、伊東勤がヘッド・コーチに招請されましたのでAクラスの予感はします。

今年の目標は、

今年は、これまで私を支えてきてくれた妻 美尋を今まで以上に労り、彼女の助言に、言葉に耳をよく傾けます。2人の子供には、常に男の模範でありたいと思っております。今年の年賀状に「健康は人生の宝物 スクラム組んで守りましょう」と書きました。医療という仕事に生き甲斐を持ち続けたいですね。宜しくお願い申し上げます。

 最後になりましたが1月8日(私の誕生日)の中日新聞の中日春秋にこんな諺が掲載されていました。

中国の処世書『菜根譚(さいこんたん)』は説いている。<語に言う.人を看るには、只のちの半截を看よと.真に名言なり。

  俗に人間の価値は後の半截、つまり後半生をみればいいと言うが、誠に名言だ。

そして、今シーズン(南半球なので今が夏)、南米大陸最高峰のアコンカグア登頂に挑戦する三浦雄一郎のことが熱く書いてありました。

挑戦し続けることである。心身とも衰えているのは自覚している。それでも、目標に向かう楽しさが忘れられない。小さな挑戦の種を探すことは出来るだろう。

 そうだ!

この最後の言葉を今年のキーワードにしようと決めた。

01月21日  南米大陸最高峰「アコンカグア峰」に最高齢での登頂を目指していた三浦雄一郎隊は悪天候とドクターストップのため登頂を断念した。悪天候のため高所に長期滞在した。その為心不全発症の可能性があるという診断だった。登頂断念した時の彼の再挑戦の談話が奮っている。「鍛え直して、90歳でエベレストの挑戦する」だった。飽くなき挑戦魂に改めて、改めて脱帽です。意欲満々ですね。満86歳です。陛下より1歳年上です。
三浦雄一郎の父親、三浦敬三は戦前から戦後に掛けての世界的に知られた名スキーヤーである。競技スキーヤーではなく、アルペンスキーヤーとして世界中に名を知られていた。90歳でも活躍されていたので、親子鷹ですね。 人生を思いっきり楽しもうとしている姿は高齢化が進む社会への励みとなります。

                                              平成31年01月14日 

 

私の後半生の思い出を一杯に詰め込んだ「平成の世」が静かに去って行く。

感慨深いものがありますね。

どうしても書いておかねばならない事,書き記して公約としたい事が一つ残っている

私達がパキスタンのカラコルム・ヒマラヤ遠征(HUKE’79)から満40年の歳月が経ちました。記念の会合を開き旧交を温めたい。そして岩木山に登り、遭難した岡正憲隊員、食道癌で逝去された花田隊長の霊を慰めたい。生意気な事をいえば、自分の死を意識し始めた時、何としても成し遂げておきたい行事だという信念を持ち始めている。意欲を持って勧めるつもりである。

 

     註

いつかある日

いつかある日 山で死んだら
ふるい山の友よ 伝えてくれ

母親には 安らかだったと
男らしく死んだと 父親には

伝えてくれ いとしい妻に
俺が帰らなくても 生きて行けと

息子たちに 俺の踏みあとが
ふるさとの岩山に 残っていると

友よ山に 小さなケルンを
積んで墓にしてくれ ピッケル立てて

俺のケルン 美しいフェースに
朝の陽が輝く 広いテラス

友に贈る 俺のハンマー
ピトンの歌声を 聞かせてくれ

 

この歌はフランスの登山家が作りましたが、訳詞をしたのは深田久弥です。日本百名山の著者です。

私達が山岳部の現役の頃慕い、反撥した登山家です。

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