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腰痛ヘルニア闘病記(その2 助走・狼煙・噴火)

破壊なくして創造はない

                ヒンズー教のシバ神の教え

    君原になるのだという大野望実現の為の助走にするぞ   

   手術(2016年4月30日)から1年半、最後のフルマラソン(2015年11月8日 揖斐川マラソン)から丁度2年経ちました。再起をかけた挑戦のつもりで臨みました。

揖斐川マラソンは町を挙げての大声援、心のこもったサポートなどで人気のある大会である。そして、コースの景観も素晴らしい。揖斐川に沿って遡行していくと紅葉が見事である。ハーフ折り返しは藤橋村である。その場所で拍たれる威勢の良い太鼓は何度聞いても心が騒ぐ。しかし、今年の今の僕にはそれを楽しむ余裕はない。却って、起伏の変化に富んだコースであること、制限時間が5時間30分である事などが大きなプレッシャーになっている。が、第一歩を始めた揖斐川で再起を図りたい。その思いも強い。2年前が4時間55分、3年前は4時間35分である。今年の目標は5時間以内での完走です。それなりの準備はしたつもりです。

 

<<68歳の助走>>

 

2017/11/12    日曜日    快晴   朝7℃ 最高気温  13℃

0940分号砲が鳴る。スタートラインで4分遅れです。結構走れます。走れますが、不安が顔を覗かせる。爽快にはなれない。「ルン・ルン」気分では走れません。脚に任せて「ままよ」という気分にはなれない。ランナーズ・ハイの高揚した気分には到底なれなかった。

10キロ  1時間08分で通過。疲労感はない。脚の痛みもない。水分補給も出来ている。

20キロ  2時間23分で通過。ちょっと遅れましたね。

      このまま、このまま、下りが始まるよ。

30キロ  3時間36分

      心の隅にあった好タイムの可能性はなくなる。出来れば3時間20分で通過      したかった。後は5時間以内の完走だ。目標を変える。

40キロ  4時間45分

      このままでは危ないぞ。堤防を必死で走りました。

42.165キロ 5時間ジャスト?  ネットでは大丈夫だろう。

 ずっと一定のスピードで走っていました。往路の登りを歩くことありませんでした。そうするとタイムが落ちたのは体力の衰えですかね。帰りも歩かなかったよ。30-35キロの壁もきちんと走りました。

この日は、走っていると汗が出る、日陰では寒い、市民ランナーには最高の、ベストの気候でしたね。

 

手を振れ

脚を挙げろ

これまでの努力を無駄にするな。

(30キロの壁に掲げてあった標語)

 

 

<<狼煙を上げる>>

去年の5月に戻ります。

2016年5月

伊東整形外科opeクリニックで手術を受けたのは一週間前の4月30日です。

ゴールデン・ウィーク明けからウォーキングから始めました。痛みなしで歩けますよ。しかし左足が心許ない。力は十分入るが、不安定だ。的確な表現が見つからないが、気になる。気になって、心許なくて当たり前ですよね。

5月 15日 日曜日

高橋尚子ぎふ清流マラソンを断念しました。3時間ならば完走出来そうな気もするが、ここは自重する。女房の「止めて下さい」「無鉄砲なのもいい加減にして下さい。患者さんに走りないというのですか!貴方は!!」の一言で踏みとどまりました。

6月に入ると10キロぐらいを立ち止まることなくジョッキング出来るようになりました。しかし、牛の如しである。道祖神・庚申塚・稲葉右近のお墓に立ち止まることがなくなりました。

06月

05日

黒滝から励ましのメールが届く。そう思ってくれる友人がいることを本当に有り難く、受け止めております。有り難う。

少しづつではありますが、運動負荷を始めました。自分の心に「挫けるな」「甦れ!ガンバレ」と呼びかけています。昨日の午後も、8キロを 歩いたり走ったりしました。

疲れ果ててしまいました。でも、情けない有様と捉えないで、復活ののろしだと思う事にしています。

すぐに挫折かもしれませんが・・・

06日

土・日・月と負荷を掛けました。腰は痛くないですね。こわごわです。6キロ走が精一杯です。

08日

大船神社の往復 3回+清水屋の往復=10キロかなぁ  まずまずの体力ですか。

10日、11日 清水屋の往復を朝ジョッキングしましたが、大丈夫のようだったが、

12日朝 左腰が痛い。違和感がある。・・・今日は一日休み。こうなると一気に不安が頭を持ち上げてくる。

17日  快調・・1キロ毎に立ち止まるけれど・・・痛みはない。 何となく止まっちゃう。

夜アクトス 違和感はなくなりましたね。 柔軟も少しづつ・・

06月19日  アクトスで9キロ、ゆっくり走りました。痛みなどはない。

筋トレもやったが腰には不安がある。

06月26日  東京でも品川から東京タワー・皇居辺りまでジョッキングをしました。あらゆるランナーに追い抜かれる始末です。情けないが、走れるありがたさが身に沁みる。

9月

17日、18日

山岳JMAT講習会  御嶽山 濁河温泉周辺

18日は大雨の中を飛騨川から御嶽山の中腹まで登りました。風雨が強く7合目の「覗き岩」で登山中止となりました。後れをとることなく登ることが出来ました。下りの衝撃にも腰は耐えました。大いに自信を取り戻しました。

 

<<300歳リレーでは屈辱を味わう>>

10月

05日

 運動会のメイン・イベントは最終競技の300歳リレーの練習を始める。 ヘルニアの術後状態であることを全く感じさせない体力の衰えである。(文章の、文法の誤りではありません。そのままが真実です。)

足が出ない。揚がらない。加速しない。情けない。余りに情けない。

07日 なんとなく左腰にツキ・ツキと痛みがある。やばい

10日 午後、運動場で土屋君と合同で練習をしました。むごい結果です。お先真っ暗です。

暗澹たる思いが押し寄せてくる。引き受けるのではなかった。

16日

1日掛けて300歳のアンカーの準備です。ドーピングも準備した。

福本航大→岩井昭寿→小栗健策→林俊一郎(バトンを落とす・・このとき2位をキープ)→臼田啓介(1位)→岩井和久(1位)→臼田晋也(1位)→タカさん(1位でバトンを貰い2位でゴール)相手は大宮の上野君です。コーナーに入って並ばれコーナーで抜かれました。

宿敵大宮に今年も負けました。左足が2度ほどガクーとなり前のめりになりかけました。よくぞ、転ばなかった。走り抜けるだけで精一杯でした。

動画を見ました。全く足が揚がっていません。脚を上げる。前傾で走る。息を止めて走る・・・何も覚えていない。左足の恐怖だけが残っている。

バトンを貰った時、これは勝てると思った。晋也君から貰った時5メートルはあった。気が緩んだ?。そんなことはない。必死だった。が、己の体力の絶対的な衰えが全てだった。

勝ってその長い努めから引退したかったが、怪我をしないうちに潔く止めます。

平成12年から16年まで5連覇、平成18年から20年まで3連覇。平成22年が最後の優勝です。この2年間は最下位でした。それだけに勝ちたかった。

 抜き去ってテープを切ってゴーウインをしたことは何度もあります。最高に気分の良い時ですね。余裕の或る時はテープを切ってバトンを投げ出したこともある。ウィニングランを1周したこともある。抜かれたのは初めてです。

 左足大腿部には軽い肉離れの症状が出ました。一週間ほどで回復した。

註 1

男子8人の満年齢の合計が300歳以上が必須条件の自治会対向のリレー競技です。1周約160メートルの運動場を4周します。結構毎年ドラマが生まれます。独走態勢に入っていたチームが転倒で走れなくなったり、最後のホームストレッチで競り合ったりする。小さな町の秋の運動会が一番盛り上がる一瞬(とき)です。

 

2016年11月

11日(日曜日)  快晴  暑い

揖斐川マラソン・ハーフに出場しました。

スタート前の会場で皆さんに会いました。 「金シャチ」の河合会長・山田さん・そして帰り際に武藤さんに会いました。「ハーフに出る」と言ったらとても喜んでくれました。誓約書を出しに行こうとしたら、大池に、野々村に、宇治先生にばったりとであいましたs。話していたら、可児警察の河方さんと八百津町役場の吉田さんが次々と挨拶に来てくれました。嬉しかったね。そして最後の堤防では、興和創薬の韋駄天男の異名をとる太田さんが脇をスイスイと走り抜けながら「佐藤先生」と呼びかけてくれました。感激ですね。彼はフルマラソンに出場したのですが、ハーフに出場した私を疾風の如くに追い抜いた。

「この日の一番のタカさん」は、帰路の13キロ地点で例年のバンドグループに「負けないで」を演奏して下さいとお願いした勇気です。一番を一緒に歌いました。

2時間32分のタイムでした。完走出来ればそれだけで十分に嬉しいと思っていても、タイムが気になる愚か者のままです。21キロをエイドの休み以外で足が止まらなかったことが、何よりの収穫です。帰りにグランドホテルで「あんパン」を購入して帰りました。

<<先ずはハーフマラソンで手応えを>>

2017年 4月23日 (日曜日)  快晴 暑い

  第7回高橋尚子杯岐阜清流ハーフ・マラソン大会

2時間20分が目標です。結構練習はしました。練習オーバー気味だったかもしれない。タイムトライアルをしなかったのがちょっと気がかりだった。

完走時間 2時間19分。気温は21.5度。顔から汗が噴き出ました。翌日の筋肉痛ナシ。スタート前、運良く大野君、具香さん夫婦とも会えました。メディセオの杉山君にも逢えた。最後の最後からスタートです。号砲が鳴ってから13分ぐらい経ってスタート地点を通過しました。5キロで頭から水を掛ける。6分30秒/1キロのペースをずっと維持しました。どんどん追い抜く元気は無かった。走れそうだが、脚が出ない。まだまだ不十分だね。走り抜こうという気概よりも、走れれば良いのだという現状肯定傾向思想から抜け出られない。

快晴だったので日焼けしました。企業の応援とエイドは16銀行とOKBの戦いでした。そんな感じの大会です。目につきました。2年前は1時間58分だったのだが、今ではそんな自分がいたことすら信じられない。

 この頃、ある程度の脚力の回復には自信がついてきていた。問題は、克服すべき事は思い切った飛躍だと確信し始めた。それならばと3年振りの丹後街道ウルトラ100キロへの挑戦を決めた。夏場に向けて結構走り込みました。が、持久力も忍耐力もこれほどまでにと自分にビックリするほどに落ちました。

そんな時に[星の郷八ヶ岳野辺山高原100キロウルトラマラソン]に出場しないかという話が転がり込んできた。全く準備不足だが、八ヶ岳を観に行くぐらいのつもりで参加を決めた。

結果は惨憺たるものだった。

詳しいことは

[ランニングを語る  その1    第18回星の郷八ヶ岳野辺山高原

   100KMウルトラマラソン完走記の中の 追記 3

を読んで下さい。

無理だと分かったままの無謀なチャレンジであることは承知していた。しかしあわよくば70キロぐらいまで辿り着けるのではと「捕らぬ狸の皮算用」もしていた。

この大きな反省から自分なりのウルトラ100キロマラソンの心得なるものを作ってみた。

詳しいことは[ランニングを語る その3  ランニング・アラ・カルト]の中の[ウルトラ100キロを目指すランナーに助言を]に詳しく書いた。

 その己が造ったチャートに沿ってトレーニングを重ねた7月~9月だった。その途中ででは「金シャチ」の練習会で60キロを走り込んでおこうとも考えていた。

 しかし、本当の思わぬ伏兵の登場に行く手を阻まれた。

事の顛末は

 「タカさんの浅智恵  その1  大本営発表・競馬の予想・台風の進路予想」

の中の[台風19号]に思いの丈をぶっつけた。読んでみて下さい。

 

第30回 いびがわマラソン 2017年走認定証

 

氏名       佐藤孝充         

ナンバー     13927

記録       5:04:21

(ネットタイム  5:00:18)

種目       フルマラソン60歳代男子

総合順位     3733位 (4567人中)

種目別順位     258位(347人中)

 

 

                                 脱稿  平成30年01月05日

電話・FAX

TEL.0574-43-1200
FAX.0574-43-9050