佐藤クリニックロゴマーク

私の平成の歩み  その1

あと2日間(29日・30日)で平成の御代が終わる。

テレビジョンも新聞もあらゆるマスコミは「平成最後の」という接頭語,枕詞を羅列して大騒ぎである。確かにその通りであるが、一瞬一瞬が再び帰らない貴重な一瞬である。それよりも大事なことはその1人1人にとってこの31年間はどうであったのかである。

そんな思いから書き始めました。

それでも、昨日参加した「第Q回高橋尚子長良川清流ハーフ・マラソン』は平成最後であり感慨深かった。6回目の参加でした。

第1回  2011年 記録残っていない

第2回  2012年 記録残っていない  

第4回  2014年 1時間58分

     何度もタイムトライアルをして参加しました。50分を目指していたのですが

第5回  2015年 2時間 5分 

第6回  2016年 欠  4月30日腰椎椎間板ヘルニアの手術

第7回  2017年  2時間19分

      『ハーフ』ANDOドーム』大会 ハーフマラソンを走って、午後は名古屋       ドームでドラゴンズ戦を観戦。最高の1日でした。

第8回  2018年2時間28分

       年齢による衰えを実感した大会です・

第Q会  2019年2時間 28分

      Qちゃんの記念大会  タカさん70歳で参加

   持ち時間が30分しかありません。結構ギリギリになりました。

ここから話を始めたい気分もありますが、いつもランニングばっかりなのでここは閉じます。

そうだこれで行こう

年賀状でたどる我が家の平成31年

 

平成元年(1989年)

1月7日 昭和天皇が崩御され昭和64年は僅か7日間で終わった。翌8日小渕官房長官が『平成』と書かれた書を掲げて新しい元号を発表された。つまり私の40歳の誕生日は平成元年の初日という栄誉に浴よくしました。弟「兼雄」の長男「功」は数少ない平成64年生まれです。

 

平成を書き始める前にチョットだけ昭和63年のことを書かせて下さい。元号こそ変われど、時間的継続性はあるはずですからね。

星野ドラゴンズはリーグ優勝を果たしました。しかし,今上天皇がご病気で療養中と言うことで優勝パレードは自粛されました。多くの行事が連鎖反応的に自粛されました。私は大反対を表明しました。陛下のお心はそこにはない。臣民として1日でも早い『平癒』を祈願するのは当然である。が、それが日常生活全般に暗い影を落とすことを陛下は臨んでおられない。陛下は前年に手術を受けられこの年の9月に吐血をされ重篤な状態になられた。 この時のことは『燃える男 星野仙一  背番号 20』に詳しく書きました。

 

1989年秋に八百津で一般開業医として開業することは決めていた。建築は旭化成のヘーベルハウスと決めていた。ところがお金を貸してくれる銀行がなかなか決まらなかった。八百津には十六銀行と東濃信用金庫があり、東濃信用金庫は母の姉の嫁ぎ先、多治見の丸栄陶器の社長(私の従兄弟)が理事を務めていた。その従兄弟を頼って融資をお願いしたが、頭を縦に振ってくれなかった。十六銀行も義父を頼って融資を依頼したがダメだった。何故ダメだったのか、疑問符のままである。その頃、私は愛知医大を辞職し上飯田第一病院で内科医として勤務していた。開業そのものが暗礁に乗りかけた時に助け船を出し、融資に応じてくれたのは可児の東海銀行だけだった。但し貸出金利は今では想像が付かない利率だった。変動相場制だったので、平成2年には8.1%+消費税3%だった。

 

この年10月にはソウル・オリンピックが開催された。瀬古がマラソンに出場した大会である。日本の金メダルは4個。レスリング男子で2ヶ、柔道の斉藤斉、水泳背泳ぎの鈴木大地。陸上ではアメリカのカールルイスが絶頂期だった。

 

平成に戻ります。

4月から佐藤クリニックの新築工事が始まりました。ほぼ毎週日曜日毎に八百津に戻り、あちらこちらと挨拶に回りました。旭化成のヘーベルハウス建築は非常に気にいっていましたが、問題点はありました。それは、医院の建築の経験が無かったことです。私もクリニックの建築となると皆目見当が付きません。設計する大石さん、営業の斉藤さんと協議に協議を重ねて見よう見まねで独創的で斬新なものを創り上げていく作業は大変でした。佐藤クリニックのロゴマークは女房(美尋さん)のオリジナルデザインです。

一番私達を悩ませていたのは、心配していたのは、長男統のことでした。当時棲んでいた藤が丘のエクセル・サンパークの正面には公園があり、同級生のお友達も沢山いて、子育てには最高の環境でした。9月の終わりに引っ越しをして医院を開業する。猫の手も借りたいほどに忙しいだろう。統の育児に時間を割いてやれるだろうか。しかし案ずるより産むは易しの諺通りでした。1歳年上の小栗健策君(現在 小栗歯科クリニックの院長)が毎朝、誘いに来て保育園にも連れて行ってくれた。八百津保育園3歳未満児のクラスです。担当の保母さんは中島先生でした。統は小栗家に入り浸り、晩ご飯までご馳走になって帰ってくる毎日でした。

 働いてくれる従業員も集まりました。看護婦さん2人(岩井敏子さんと山内紀美代さん 今日に至るまで30年間勤めてくれている)、副看護婦さん1人(高木百合子さん 65歳まで働いてくれました。 副看護婦制度は岐阜県だけの制度です。)医療事務1人(岩井美鈴さん)体制で取り敢えず、始めることに決めました。

9月23日(土)・24日(日)には内覧会をやったところ沢山の方に来て頂きました。大きな反響にビックリです。古田貢先生が亡くなられた後、廃院になっていた八百津療院・古田医院の跡地で ㊤の息子が内科医院(佐藤クリニック)を始めると言うことは広く知れ渡っていました。期待の大きさをひしひしと感じました。10月01日は日曜日だったので、実際の診療開始は2日からでした。この日の患者さんは全て新患の患者さんです。こうして何もかもが新しい出来事で経験の毎日が始まったのです。「開院前夜』のことは項目を改めて記載したいと思っているが、こうして本当に佐藤クリニックは稼動し始めたのです。

11月9日、ベルリンの壁が崩壊する。12月のソ連ゴルバチョフ大統領とブッシュアメリカ大統領の歴史的会談を以って「東西の冷戦」は終結した。

日経225は12月の末に38957円を付ける(これまでの最高値  バブル経済の絶頂期)

 平成2年(1990年)

無我夢中の毎日が続いていました。医学のことは知っていても、保健医療のことは全く知らないままの開業でした。今でもそうだと思いますが、そのギャップの大きさに戸惑いながらも深く考える暇も無いほどに忙殺されていました。分からないことは安藤薬業の石垣所長に聞いていました。石垣署長もこの何も知らない院長には任せておけない、わしが仕切ると張り切っていたのだと思う。朝から晩まで受付で、薬局で采配をしてくれました。佐藤クリニック黎明期の恩人です。

1月には看護婦の今井つう子さんが、4月には医療事務に永田直子さんが我々の仲間に加わりました。患者さんも順調に増えていたので、チョット仕事に余裕が出てきました。

統は年少組になり、担任の保母さんは洞地先生。年中の時も洞地先生でした。年長では山本先生でした。

4月から3%の消費税が導入されました.大型間接税です。

8月には小栗家と一緒に北陸に旅行に出かけました。

225は、最高値から1年余りで20.000円割れになる。バブル経済崩壊が始まる。

電話・FAX

TEL.0574-43-1200
FAX.0574-43-9050