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献血(私的歴史とその周辺  2018年7月08日追加)

結論的にいえば、献血は健康な我々が貢献できる1番手っ取り早く、そして確実な効果を期待できる奉仕作業(運動)です。僅かな針を刺す時の痛みで、瀕死の状態の病める人を、命を救うことが出来ます。おまけとして、付録として献血者が健康であるかどうかの採血検査結果も知らせてくれます。HIV感染、ウイスル性肝炎感染の有無、肝機能異常、貧血の有無を1週間以内に知らせてくれます。
私は、いつ自分がそんな状態に陥るかもしれないという不安の払拭と、己の緊急事態には誰かが献血で救ってくれるのだという強い期待を込めて続けています。そんなことを少し語らせて下さい。

 

<献血啓蒙活動期>

私はライオンズ・クラブの四献委員・会長職を勤めていた時代、以下のような文章のパンフレットを作って献血奉仕運動の普及に努めてきました。

 

献血のお知らせ・お願い

---あなたの元気を分けて下さい---

この間ラジオで献血の広告・宣伝をしていました
「献血は元気な自分の一部を他の人に分けてあげることです」
「あなたの元気を分けてあげて下さい」と呼びかけていました
本当にそうだと思います
勇気を出して献血場まで来て下さい
年々献血量は減少傾向にあります
ライオンズ魂で減少傾向に歯止めを掛けましょう
  1時間の時間と慈しみの心を下さい
そして16Gの注射針の痛さを我慢して下さい

 

【記】

1.【日時・場所】平成**年**月**日
午前10時から12時30分まで
午後1時30分から3時まで
八百津町役場前

1.献血の可能な条件(もっと沢山の基準があります)

  • 過去4ヶ月以内に献血の経験のない方(全血献血は原則4ヶ月毎年3回)
  • 18歳から69歳までの健康な男女
  • 肝炎ウイルス・エイズウイルスの保有者でない
  • この3日間に、歯科治療を受けてない
  • この一年間に不特定多数の異性との性的接触の無い方

血手帳をお持ちの方はご持参下さい

 

42回目の献血をしてゴキゲンな筆者

42回目の献血をしてゴキゲンな筆者
注射針は顔を背けたくなるほど太いけれど意外と痛くない

 

私は趣味(?)として、健康の証として、積極的に献血をしてきています。特にこの10年ぐらいは年3回ペースで400mlの全血献血をしています。
最初の献血は弘前大学医学部の学生時代でした。友人の兄弟(?)が第一外科で心臓の手術をする。B型の生血が必要だ。そんなこんなでみんなで助けあおうと呼びかけあい、輪が広がりました。手術当日の午前中、外科の病棟に行き採血されたのが最初でした。日本赤十字社の献血運動に参加したのは泌尿器科医になってからです。医局の先輩の先生から「外科系の医者としていつも輸血で世話になっている」「お礼の意味を込めて献血しよう」と誘われたのが最初です。その後しばらくの間は、献血車を見ると献血する、誘われるとする程度の意識でした。意欲的には、積極的には取り組んでいませんでした。

 

<骨髄移植治療が始まる>

55人に届いたいのちの贈り物 東海骨髄バンク

イメージ大きく方向を転換させたのは、1993年に中日新聞社から出版された「55人に届いたいのちの贈り物東海骨髄バンク」を読んでからです。そして、1997年(平成9年)ライオンズ・クラブの4献委員長として骨髄バンク登録を奉仕活動として取り組みました。その年の9月、骨髄移植をテーマにした「金色のクジラ」の上映会を開催しました。骨髄移植治療が殆ど認知されていない20年以上前の浜松が舞台です。実話に基づいた物語です。小学校入学前の6歳の弟(裕一)が、急性骨髄性白血病で倒れる。入院治療をするが回復しない。寛解状態を得るには骨髄移植しかないことを知った兄(努)は弟のためにドナーになることを決意する。移植治療を前提とした全身放射線照射は辛い治療だったが、ドナーになってくれた兄を思い、感謝の気持ちから頑張り抜く。そして担当医師や家族、友達の励まし、応援のお陰で寛解状態に戻る裕一の姿を描いた映画です。この頃から急速に骨髄バンクが設立され始めたのです。早速私は岐阜茜部の日赤献血センターまで女房と出かけ、骨髄ドナー登録をしました。骨髄移植は危険を伴うが、私達の骨髄血を必要とするのであれば提供する覚悟で、2人で登録しました。残念ながら、2人とも提供する機会には恵まれませんでした。


<それからその後期待>

その後、こんなふうに考えて行動してきました。

「心身とも健康である私に出来ること健康だからすべきこと」
「医療従事者だからこそなすべきこと」

この2つの考え方から積極的に関わるようになりました。役場に献血車が来る時は、時間の許す限り、可能な限り献血しました。そして最近は多治見の駅前の献血センターに行くようになりました。この時代、献血センターは土曜日も日曜日も稼動しています。この誠意に報いたいと思っています。

 

羽生結弦も積極的に「powerof献血」に貢献しています

羽生結弦も積極的に「power of 献血」に貢献しています
羽生世代のあなたが第一歩を踏み出して下さい

 

2017年1月8日(誕生日)現在、献血回数は42回です。骨髄移植は18歳以上54歳以下、献血は18歳以上69歳以下までです。残りはジャスト満2年です。6回プラスしても全血輸血50回には届きません。
何が言いたいのでしょうか?
それは、このページを読んだら「思い立ったら吉日」と献血に行って下さい。
年齢制限があります。50回を目標とするのならば、最低約17年掛かります。53歳がラストチャンスです。100回だと36歳がリミットです。
日本は世界一の健康長寿社会になりつつあります。「ゆっくり行こうぜ!」「俺たちは・・・!」をモットーにして悠々自適に、意義ある人生を送ることに大賛成です。
寿命に年齢制限はありませんが、年齢制限という厳しい期限があるものもあるのです。
因みに、私は、「古希」の年に大きな「金字塔」を建てたかった。残念でなりません。

 

                                                                                                                                                         2017年1月8日脱稿

 

【追記】
献血も移植の一つと考えれば、骨髄移植、献血(移植)そして臓器移植(脳死移植と心臓移植)と3つの移植があります。骨髄移植と献血には年齢制限があります(前述)。臓器移植には年齢制限はありません(15歳以下でも可能になりました)。この3本の大きな柱は私達日本国民の善意の奉仕の心の象徴でもあると考えます。ところが残念なことに年々減少傾向にあります。臓器移植登録者でいえば、平成22年の40.000人を最高に減少傾向です。27年には5.700人まで減りました。法律など多くの問題を抱えていますが、現状は危機的です。「お・も・て・な・し」とか「お・も・い・や・り」が日本の本当の心であるならば、この現状をどう理解すれば良いのでしょうか。
「何故?「何故?」「何故・」が解決しません。
そんな意味も含めて「一石を投じた」つもりです。

 

2018年(平成30年)7月8日    日曜日   快晴

全血400ml献血50回達成

 この20年間ぐらいは400ml献血を続けているが、それ以前は200mlの時もあったと記憶している。詳しいことは分からないが、確実なことは献血目的で50回16ゲージの針を刺されたことである。ここまで書いて調べてみたら、400ml献血を始めた頃は1回献血をすると2回分の献血として記録された時代もあるようだ。「?」「?」と馘をかしげるが、その事も不確かさに拍車を掛ける。残った最後の確実なことは献血手帳の50回目の記録と「50回献血功労」の記念杯である。

今年の5月から多治見駅前の献血ルームが廃止された。名鉄岐阜駅隣の献血ルームか「あかなべ献血ルーム(岐阜赤十字献血センター)へ行かなければならなくなった。ホーム・ページを覗いたら、近日中に可児ショッピングセンター バロー」に献血車がやってくる。この日に記念献血をしましょう。

7月8日  日曜日  快晴  午後2時に出発する。テレビもラジオも西日本豪雨の被害の状況を報じている。まだまだ被害は拡大傾向であり、死者・安否不明者の全容も掴めていないようだ。1人でも多くの人が救助されることを願いながら「バロー」に到着する。献血車の献血は作業が献血ルームよりもスムーズですね。よどみなく20分以内で終わりました。そしてお目当ての50回記念の記念杯を頂きました。(献血者顕彰規程に基づく)

満足感で一杯です。「無償の征服者」ではありませんが、何となく「誰かのために50回役に立つことが出来た自分の存在」と実感することが出来ました。記念の杯は10回、30回、50回と同じ形です。色合いが違います。50回記念杯は「浅黄色」です。

その晩、私は普段より多くお酒を嗜んだ。今年の9月から来年(平成31年)月7日までに51回目の献血のチャンスが巡ってくる。最後の挑戦(奉仕)をしてこの私のささやかなトライアルの終焉としようと決める。

健康であること以外に何も必要としない無償の行為だろうと考えていた。義援金はお金が必要である。災害地のボランティア活動は自分の時間を、生活を犠牲にしないといけない。献血は、16ゲージの針の痛みだけである。スポーツ選手であれば瀉血トレーニングにもなる。

「無償の征服者」はフランスの登山家「リオネル・テレイ」の本の題名である。アンナプルナ遠征隊ではエルゾークとラシュナルの2人の初登頂者の救助に大活躍をし、その後マカルーとジャヌー峰の初登頂者となった。ルイ・ラシュナル、ガストン・レビュファと共に1950年代のフランス登山界の英雄である。

 

お詫び並びに訂正

2017年1月の原稿投稿時は何か勘違いをしていたようです。今回の全血輸血で50回を達成しました。思わぬご褒美でした。

再度声を大にして主張します。

この駄文を読んだらその脚で、献血センターに行きましょう。

50回献血するには53歳の時がラストチャンスです。

骨髄ドナーバンクに登録しましょう。

臓器移植に登録しましょう。

献血・骨髄移植・臓器移植への参加、この3本の大きな柱は私達日本国民の善意の奉仕の心の象徴でもあると考えます。

                         平成30年7月18日 脱稿

 

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