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燃える男・星野仙一背番号[20] 逝く(2018年4月24日更新)
私ほどドラゴンズファンに愛された奴はいないと自負をしている
今朝(2018年1月6日)の一番のニュースは「星野仙一の逝去」です。
昨年の暮れ(2017年12月)野球の殿堂入りが決まり、その披露宴パーティーのニュースを見た時、ちょと痩せたかなと思ったぐらいで元気だった。いつもの星野節を聴いた記憶があります。 膵臓癌だったようです。一昨年の秋に発見され、昨年12月末に容体が急変し今月4日に亡くなられたようですね。
生涯ドラゴンズ・ファンの私にとって、現役時代の彼は大ファーンでした。中日の監督を退団してからは彼の姿勢に賛同したり、[そりゃ!おかしいよ][やり過ぎだよ 星野さん]と批判的立場だったりしました。私の気持ちの整理を兼ねて彼の経歴を辿り、私との関係を総復習してみました。
43年頃の入団ですね。倉敷商業→明治大学→ドラフト指名で中日ドラゴンズへ入団
ヤクルトの松岡は高校の1年先輩、大洋の平松は岡山東の同学年。巨人の髙田は明治大学の1年先輩です。同期のドラフト選手には冨田勝・山本浩二・田淵幸一の法政三羽がらすがいる。
阪神ファンだったので阪神入りを希望していたが、阪神球団と明治大学が仲が悪くて指名は無理だった。巨人は一位指名を約束しておきながら指名しなかった、そうです。
1974年(昭和49年) 天知監督以来の二度目のリーグ優勝。巨人のV10を阻止しました。胴上げ投手は星野です。与那嶺監督でした。15勝9敗10セーブ 沢村賞と初代セーブ王を受賞
10月12日 中日は大洋ホエールズに勝ち優勝を決めた。その同じ日、巨人の長嶋茂雄は引退を表明した。同じ日にぶつけてきたのだ。翌日のスポーツ新聞は[長嶋引退表明]を一面に掲載した。「中日 V10を阻止」も一面に掲載されたが[肩]と呼ばれる2番目の記事扱いだった。星野の[打倒巨人]の気持ちが強くなったのはこの事件以降だったのではないかと思っている。何故なら私自身の[巨人嫌い]もこれ以降、度を増したからだ。
日本シリーズは、ロッテ(金田監督)に負ける。巨人のV10を阻止することで精一杯だった。握手攻めで4日後の、日本シリーズの時には握力が落ちてしまった。こんなエピソードが残っている。
それほどにV10阻止はプロ野球ファンにとっては大事件だったのだ。
<<エピソード その1>>
その当時、私は弘前大学泌尿器科教室に入局した年でした。中日優勝の報に接し、いても立ってもいられなくなり、医局長の鈴木助教授(当時)の内諾を得て夜行列車に飛び乗って名古屋に帰ってきた。そして中日球場で弟と2人で応援した。医局に帰ると「本当に帰るとは思っていなかったよ。日本シリーズを見たいという気持ちには理解を示したが、希望だけだと思っていたからね・・]とお叱りを受けました。当然ですね。普通の会社ならば、[馘]ですね。しかし、それくらい日本中が中日よくやったと大喜びだったのです。
1982年、近藤監督の野武士野球で現役二度目のリーグ優勝です。胴上げ投手は小松でした。10月18日、大洋との最終戦に勝って優勝。星野は現役引退。
日本シリーズは西武(広岡監督)に負ける
1986年、中日ドラゴンズの監督に就任。39歳の若い監督の誕生。世紀の電撃トレードで落合を取りました。山本昌・中村武志・立浪・今中等の若手を育てる。
1988年(昭和63年) リーグ優勝をしました。郭源治が優勝胴上げ投手でした。
日本シリーズは、西部(森監督)に負ける
註 1
この頃の星野のことは[1人のドラゴンズファンの軌跡」山本昌講演会の抄録に、幾つかの逸話を書来ました。参考にして下さい。
<<エピソード 2>>
日本シリーズの券を買い求める為に中日ビルの前に朝の5時頃から同僚の村松先生と並びました。職場の愛知医大泌尿器科教室には当然の如く遅刻です。瀬川教授(故人)には、あきれられながら、こってりと油を絞られました。教授も大のドラゴンズファンでした。 日本シリーズは残念な結果でしたが優勝パレードを楽しみにしていました。処が、昭和天皇が病気療養中ということで日本中に慶賀行事の自粛ムードが拡がり、優勝パレードは中止されました。個人的にはその動きに大反対でした。私自身は昭和天皇が大好きでした。あの仕草もしゃべり方も全てが好きでした。陛下のお陰で私達日本人は戦後立ち直ることが出来た。そう思っていた。だからこそ、陛下はそんなことを望まれていないというのが私の主張でした。
勿論、伊勢神宮に参拝し、平癒祈願を心から願い記帳をしました。
1996年 二度目のドラゴンズの監督に就任する。
1999年 リーグ優勝をする。胴上げ投手は宣 銅烈(ソンドンユル)です。
日本シリーズでは福岡ダイエイホークス(王監督)に負ける。
<<エピソード その3>>
福岡ドームの決戦(第6戦)を応援に行くつもりで入場券もホテルも確保したのですが、あっけなく負けました。第6戦で優勝を決めて、翌日同じ新幹線で凱旋をするというのが私の画いた筋書きでした。
<<エピソード その4>>・日本のプロ野球史上に残る三重殺
2001年5月12日(土曜日)
中日ー巨人戦を観戦する。歴史に残る名(迷)勝負をこの体で、五感で体感する。
9回表まで3-1で巨人が勝っていました。ピッチャーはメイでした。それが9回表に代打を出してきました。勝つチャンスが出てきました。
「勝てる・勝つチャンスが出てきたぞ」「長島カンピューター様々だ」
中日ファンは全員そう思い始めた。そして、事実そうなり始めた。無死満塁になりました。名古屋ドームはドラゴンズファンの声援がうねりになっていました。打者井上の打球は、やや深めに守備していた松井の正面のセンターフライです。一死です。二塁ランナー大西は三塁に向かってタッチアップしました。が、三塁ランナー鈴木(郁)は3・本間の塁線上で立ち往生です。タッチアップをしませんでした。というより離塁して打球の行方を追っていた。当然、帰塁しかありませんが、立ち往生でタッチアウト。なぜか、大西も離塁してしまいタッチアウト。トリプル・三重殺完成!!
「勝てる」
「勝つ」
「勝った」の三段活用状態にまで心は興奮していました。
それが一瞬にして奈落の底に突き落とされてしまいました。
これが、バックネット裏のかぶりつきでじっくりと眼をランランと輝かせてみていたファンの感じたままです。 2塁からタッチ・アップして3塁に走った大西の判断ミスだと奉じられていますが、反省すべきは鈴木と高代コーチです。その理論的根拠はこうです。
井上の当たりはセンターのほぼ定位置(やや深め)のフライでした。
3塁ランナーは鈍足のキャッチャー中村ではなく、走塁用に代走の鈴木だったはずです。
センター松井の返球はホームに向かって投げられていません。2塁ランナー大西を刺すべく3塁に返球されているのです。3塁走者鈴木はタッチアップすべきかどうかは、判断の違いということがあったとしても当然ベース上でで待つべき状態です。
2塁走者大西は「タッチ・アップで3塁セーフになる自信があった」と強調しています。大西がセーフになる自信があるほどのセンターフライで、松井もホームに向かっては投げていない。この2点だけでも、誰の判断が正しかったのかは明快だと思います。
もう一つ重要なことは、本塁でアウトになってはいけないケースだからという談話が伝わっているが、それは本末転倒ではないですか。野球はスポーツであって、勝負事ではないはずだ。松井が捕球する。同時に鈴木がスタートする。松井から矢のようなボールが返球される。キャッチャー阿部のブロックと鈴木の突入、さて審判の判断は!!!!!
これがプロ野球だと思います。プロスポーツの醍醐味だと思います。
小生の友人は、金網を鷲つかみにして「鈴木・高代・お前ら野球知っているのか」「辞めろ」「おおボケやろう・おたんこナス」と罵声を浴びせていました。これはファーンとしてやってはいけない・やってはいけない態度です。2人とも大いに反省しています。
思うに、この日星野の怒りの標的になったのは大西でしょうね。
良くても悪くても星野監督有っての中日ドラゴンズです。星野監督は大好きです。彼以外の監督は考えられません。その認識には何ら変わりはありません。
2001年(平成13年) 阪神の監督に就任(阪神は少年時代からのファン)
しかしだよ。10月までドラゴンズのユニフォームを着て監督をしていた生粋のドラゴンズ人が、その年の12月にセントラル・リーグの阪神の監督に就任するか?
大の星野ファンだったのだが、怒りがこみ上げてきた。
2003年 リーグ優勝 日本シリーズではダイエーに負ける
2010年(平成22年) 東北楽天イーグルスの監督に就任
就任直後の11年3月に東日本大震災に見舞われた。当時、選手たちは被災地の球団として、試合当日でも学校などの慰問に取り組んでいた。就任3年目の13年、星野さんはそれをやめさせた。星野は「お前らの優しさは十二分に被災者に伝わった。でも、強さを伝えないと本当の優しさは生まれない。Bクラスばかりじゃ子どもたちは悲しむ。今年は強さを証明しよう」と檄を飛ばした。
2013年、リーグ優勝 日本シリーズでも巨人を破って念願の日本1になる。
11月03日 日本シリーズ第7戦 仙台
9回表 星野監督はピッチャー田中を告げました。昨日160球を投げて敗戦投手になっています。が、当然のように9回のマウンドに上がりました。点差は3-0で楽天が勝っています。2死ランナー2塁でバッターはロペスです。ライト前のヒットでランナー1塁3塁です。ちょっと追い詰められたが、次のバッター矢野を三振に討ち取る。田中が胴上げです。
星野監督の初めての日本シリーズ制覇です。
インタ・ビューでは星野監督の涙が綺麗でした。
<<エピソード その5>>
私はいにしえの星野ファンです。この20年間は彼とはドラゴンズ・ファンとして距離を置いてきました。でもこの楽天の優勝は東北復興を願っている私に追って忘れられない思い出です。そして、この試合を岩手県の平泉の旅館で観ていました。女房の美尋さんと東北旅行をしていました。平泉の中尊寺で藤原一族の栄枯盛衰の歴史を目の当たりにした晩のこの試合は印象的でした。
私は星野仙一が好きでした。喜怒哀楽を瞬間湯沸かし器のように単純に顔に出し、それでいてみんなに愛された。それで無ければ選手として2回、監督として4回(中日時代2回、阪神で1回、楽天で1回)の優勝は出来なかったと思います。
彼は、晩年、競技人口の減少を憂い人気に少し陰りの出てきた野球の再興に情熱を燃やしていたと聴きます。その対策としてどんなことを考え、プランしていたのでしょうか。
星野仙一70歳(享年)、佐藤孝充69歳、同世代の仲間として、又ドラゴンズを代表する選手としていつも意識をしてきました。彼の突然の逝去により幽明相隔てることになってしまいました。心よりご冥福をお祈りします。
最後の最後まで貴方は古武士でした
自分の画いたロマンを追い続けました
平成30年01月7日 脱稿
早速、私の友人からこんな感想文を頂きました。
2010年の秋に楽天の監督を引き受けた。そして、 2011年3月11日の東日本大震災の時も仙台にとどまり東北の復興に貢献した。選手と一丸になって被災地を慰問し、復興に出来る限りの支援を続けた。フィギュアースケートの羽生結弦も立派だと思うが、彼は仙台出身です。星野はその逆境を真正面に受け止めた。おれに与えられた使命だ。俺にしか今の東北地方を元気づけることは出来ないだろうと果敢に立ち向かっていったのだ。選手のみならず、楽天全体で地震・津波災害に[反撃の狼煙]をあげた。
その負のエネルギーをプラスに変えて2013年にはパリーグを制覇し、巨人を破って日本一になりました。その前年にはエースの岩隈が大リーグ入りをし戦力ダウンが囁かれたが、田中の大活躍、新人の則本も十分活躍した。真に星野マジックである。
星野は平時に強い指揮官では無くて、危機に瀕した時に底力のでる人(熱くならなければいけない時に上手に熱くさせることの出来る人 但し長続きは出来ない)なのだろうね。
だから弱小チームを4度率いて4度優勝したのだろうね。
すざまじい生き様でしたね。
そんな人を応援出来たことを誇りに思います。
筆者追記
阪神・楽天と野村監督の後を追っています。単なる偶然でしょうか。それとも平時に強い野村さんの足らない所(熱くならない人・・冷静に観察・分析する)を補う形で優勝できたのでしょうか。
2018/01/08 追記
註
2018年4月24日
「鉄人」衣笠祥雄が逝去しました。19日のDeNA-巨人戦の解説をしていました。午後の速報ニュースで見ましたが信じられない気分です。
大腸癌だったそうです。昭和49年中日が巨人のV10を阻止し、50年は連覇が掛かっていました。古葉監督、山本-衣笠の『赤ヘル』軍団ならぬ『赤ヘル』暴力団の燃えるような熱気にやられました。広島ファン2000人が中日選手を取り囲み、星野、ローン、大島が殴られていましたね。結局、「10人の選手・コーチが最大全治10日の負傷」という成果でした。大乱闘事件がなければ中日の連覇は可能だったと今でも思っている。
話を戻して、国民栄誉賞も受賞しています。それに値する活躍をした選手です。2215試合連続出場は平成10年(1998年)カル・リプケンの2632試合に次ぐ歴代2位の大記録です。その他の大記録は通算安打2543本、通算本塁打は504本である。硬式テニスホールを使って『四球禍』を防ぐ練習をしていたエピソードは有名であり、運良く連続出場出来たのではなくて、たゆまぬ努力、工夫の賜であることを教えている。