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ランニングを語る その2 動機と揖斐川マラソン完走記(始めてのフルマラソン)

ランニングを語る

「走ること」への興味

 

 

「ランニング」という文字を観て、「フルマラソン」という言葉を聞いて心ときめく思いをしたのは、深い感慨と興味を覚えたのは東京オリンピック(1964年10月開催)の最終競技「男子フルマラソン」を、当時普及し始めたカラーテレビの画面で観た時が初めてだと思う。旧国立競技場に入ってから英国のヒートリーと日本の円谷のデッド・ヒートは、忘れられない。眼をつぶれば瞼の奥に克明に鮮明に思い出すことができる。円谷は3位、銅メダルだった。勿論優勝は伝説のランナーエチオピアのアベベ選手である。2時間12分11秒2の驚異的な記録でテープを切りました。ローマ大会では裸足のアベベだったのですが、東京大会ではドイツ製の靴(PUMA) を履いていました。興奮した高校1年生の私は密かに家の周りの山道を駆け巡っていた。その時代、道路でランニングをする人の姿を見たことは無い。何時かは挑戦してみたいものだと勝手に思い描いていた。断っておかないといけないが、私は小・中・高校時代、足の速い児童でも生徒でも無かった。運動会は5位か6位だった。高校の持久走も真ん中ぐらいだった。3年生の時は結構練習で良いタイムが出ていた。それなりにやる気だった。だが「タカチャン!持久走 サボろまい」と声を掛けてくる奴がいた。つきあわせてきた以上今度はつきあわなければならない。仁義みたいなものを感じ、呼応して2人でズル休みをした。今から思うと、不良高校生では無かったが、どうにもならない扱いずらい類いの高校生だった。次のメキシコ大会では君原が銀メダルを取りました。

大学の部活、体育会系山岳部では結構ランニングをした。一番速いのは鈴木孝男君(東北大学理学部助教・退官)、先頭を争っていたのが野々村修君(各務原市で開業)、私は遅かった。遅かったがランニングは楽しかった。筋トレ、ウェイトトレーニングはキライだった。1979年、1982年の二度に亘ってヒマラヤ登山に参加した頃までは、意識を持って体力トレーニングとしてのランニングをしていたが、それ以降は「何時か・・」「やらなくては・・」の思いはあれども、実行は無かった。全く怠惰だった。怠惰という言葉は私の為に存在する言葉だね。

 

註 1

その時代、道路をランニングで走るなどということは誰もしていなかった。道路は車のものだった。少なくとも歩行者や駆け足愛好者を対象にはしていなかった。

註  2

バルセロナオリンピック(1992年)出場の谷口(旭化成)はメダルを取ると思っていた。それに相応しい男だと応援していた。エイドで靴を踏まれて「こけちゃいました」

高橋尚子(Qちゃん)の出場した「シドニーオリンピック 女子 フルマラソン 2000年09月24日」は、学会出張で軽井沢にいました。早朝でしたね。30キロ過ぎでサングラスを外しました。そして35キロではシモンズとの一騎打ちに勝ち独走でした。2時間23分14秒でした。翌日のインタビューで、「今朝も小出監督と一緒にランニングをしてきました」と、あのQちゃんスマイルで実に楽しそうに話していた。印象に残っています。

フルマラソン挑戦の動機       

 平成6年11月13日(日曜日)、揖斐川マラソン大会のフルマラソンに参加する。そして初挑戦初完走をする。タイムは4時間15分。分に満足のいく成績だった。同18日、次男 が誕生する。(陽と命名)ランニングを始めた最大のきっかけはこんな考えからだ。11月に生まれてくるこの子(陽)の為に、元気な父親でいてやろう。格好いい父親を演じたい。生まれてくる子供(陽)の父(私)とその子の同級生の祖母・祖父が私の中学の同級生であることは、ちょっと気恥ずかしく、照れくさい。がそれは紛れもない現実だ。受け入れざるを得ない。当然だが変更はきかない。そこで、私は保育園の、小学校の運動会で速く走れる格好良い父親でいてやりたい。そう思い始めた。その想いは女房・美尋のお腹が大きくなるに従って大きくなった。「陽君のお父さんって脚、速いね」「格好良いね」と褒めて貰いたい。言って欲しい。その言葉を我が子(陽)が誇りに思って欲しい。その思いからランニングを始めたのだ。動機はまさしくこのことだった。

運動をすることには何ら抵抗はなかった。高校時代のテニス部、大学時代の山岳部時代に鍛えた基礎体力には自信があった。鈍足だがどちらかと言えば走ることは得意だった。揖斐川に向けたランニングを4月頃から始める。走り始めてみると走ることは実に爽快だった。軽快な足取りで町内を走るのは心弾んだ。夏場に掛けては練習時間も走行距離も延びた。心配していた膝も痛くない。腰痛も無い。体調もよい。1週間に30-40キロ走った。その頃には揖斐川マラソンの完走を夢見始めた。不安が一杯だが、挑戦するぞ。弘前の医局の後輩の福士君がこんな事を教えてくれた。「周40キロを続けていればフルマラソンは大丈夫です。」「出場前に20キロ、出来れば25キロを一度経験しておいて下さい」

その頃は、ランニング・ブームの黎明期であり揖斐川マラソンの申し込みも極めて牧歌的だった。揖斐川町の教育委員会に郵送で申し込めばよかった。「定員一杯です」「申し訳ありません。受け付け終了しました」という返事が返ってくるずっと前の時代である。佐藤クリニックを担当していた持田製薬の大塚君と2人で申し込んだ。彼は「サブ・スリー」を目標とする本格的な陸上競技の長距離ランナーだった。私の目標は「先ずは完走すること。そのうち一度はサブ・フォーになりたい」。目標は大きな差が有ったがお互いに切磋琢磨しての出場である。

前夜祭に参加する。高橋友也の歌とおしゃべりのコンサートは、素晴らしかった。受験生ブルース以来の高石ともや。絶妙な彼の話術に嵌まり込む。エピソードに聞き入ってしまった。CDを購入した。久しぶりにフォークを体一杯になるまで唱った。どうも彼は偉大な、名の知れたランナーのようだ。

彼の唱っていたこんな歌を知っていますか? 

 君はランナー

走るだけの人生がむなしいのか素晴らしいのか

考える暇も無く若者は走りゆく

負ける苦さをかみしめながら人は大人になるんだね

唇かんで波が拭いて 君は又走り出す

振り向けばふるさとは何時も微笑むけれど

前を見つめて君はランナー

命のかぜになる

やさしい人になる

 

優勝の文字は何故だろう 「優しい」と書くんだね

あんなに孤独な戦いの後は 誰だって優しくなれるのさ

秋の峠を登ってゆく 君の背中を見送れば

僕だって何か出来る そんな気がしてくるさ

振り向けばふるさとは何時も微笑むけれど

前を見つめて君はランナー

命のかぜになる

やさしい人になる

 

「野の花になれ」もランナーには素敵な歌ですね。

「君のベストフレンドは君だから~」

 実に豊かな気分で眠りにつく。

11月13日(日曜日)

午前9時45分揖斐川警察署(総合庁舎)前をスタート。スターターは西濃運輸の田口社長だったと記憶している。数千人の参加者である。走る前に「大きいほうの用」を足しておきたいのだがなかなか順番が来ない。大混雑だ。困った。それでも、どうにか間に合った。ランナーの数も凄いが、沿道は溢れんばかりの応援者だ。保育園の園児が旗を振って「頑張って」と声を掛けてくれる。

これが揖斐川マラソン名物の声援なのだね。有り難う。時間内に帰ってきます。前を向いて走る。上流に向かって左岸を8キロ遡行する。45分だからほぼ予定通りだ。揖斐峡大橋を渡って中間地点まで右岸を登る。標高差は127メートル、アップ・ダウンが結構あり体力を消耗する。藤橋のハーフ地点では1時間50分経過。出来すぎだね。だが、まだまだ余力がある。下流に向かって右岸を下り始める。30キロ手前には揖斐川ライオンズ・クラブのエイドがあり、イナリ寿司をご馳走になる。美味しかった。食べやすい。ご馳走になりました。30キロの壁を過ぎた頃から体が悲鳴をあげ始める。脚が挙がらない。ガックーとペースが落ちる。後から賑やかな集団がやってくる。「高石ともやとその仲間」達だ。ついて行こう。ついて行けばサブ・フォーだと思うのだが、足の裏には激痛が走り、脚は前に運ばない。アクセルを踏もうとしても空ぶかしになってしまう。 

山岳部時代にはこう教え込まれた。

「疲れれば、足が棒になる。足が棒になったら、その棒になった足を杖に歩け」

「エライと思っているのはお前の頭だ。胸と心臓だ。歩くのはお前の脚だ」

「離して考えろ。別のものだと捉えて動け」

「動かねば設営地点には着かない。着かなければその日の行動は終わらない」

「エライ!と言って安全な方に倒れ込むうちは余力がある」

「自分に甘くすればそのつけは自分に戻ってくるぞ」

久しぶりに山岳部の工藤さんの顔が浮かび、声が聞こえた。

足の裏が痛くて、エネルギーが切れて走れない。歩く。エイドで休む。水分を補給して、バナナを食べて「さあ!」と走り始めると足の裏に激痛が襲ってくる。麻痺していた痛みが戻ってくる。食いしばって走っていると痛みが和らぐ。山岳部時代が思い出される。脚が出ないと後から登山靴の先端で私の登山靴のかかと部分を蹴り上げられた。痛くは無いが屈辱的だった。かかとを蹴られたくない。必死に走った。歩いた。後は下りを残すのみだが、一歩・一歩に意志の力が必要だった。そして大橋を超したあたりでバンドの演奏が聞こえてきた。昨日コンサートで聴いた歌も聞こえてくる。

がんばろう!!

まけないぞ!!

4時間で最後の堤防に到着する。長い・長い・どれだけ走ってもゴール地点のアドバルーンが近づいてこない。橋を左折して揖斐川町の市街地に入る。道路の両側は応援の人で溢れかえっている。手を振り旗を振って私の、私達ランナーのランニングを讃えてくれる。「貴方は勇者です」と褒め称えてくれている。ここは残る力を振り絞って全力で走る。走ったつもり。そしてゴール・インする。

もう走らなくても良いのだ。今日の戦いは終わった。ポカリ・スウェットを飲むと改めて汗が噴き出てくる。完走したのだという実感が湧いてくる。私のタイムは4時間15分でした。この頃はまだRCチップは使われていなかった記憶です。どうやって計測していたのでしょうか。記憶がハッキリしません。ゴール地点の大きなデジタル表示の時計と自分のストップ・ウオッチで計測はしていました。多分、携帯電話も持っていなかった。大塚君が声を掛けてくれる。彼は3時間13分。完走を実感したのは家に帰り女房に報告し、ご褒美のビールを飲んだ時が最初だ。そして彼女が、大きなお腹をなでながら「貴方の誕生記念にお父さんはフルマラソンを走ったのよ。」「最初のプレゼントですね。よかったね」とお腹の子(陽)に話しかけた時だ。その後3日間の全身の筋肉痛で、顔をゆがめる度にその余韻に浸った。両側の第一趾の爪は内出血して「ナマ爪」状態だった。数ヶ月後にぽろりと剥がれた。靴ヅレによる皮膚潰瘍も足底部に数カ所有った。これって勲章ですね。

こうして私のランニング人生は始まった。

平成6年の完走賞がどうしても見つかりません     この写真も平成9年撮影です

 平成9年の完走賞を代用              右隣は野々村君です 彼は速い

この時代裏面に押し花は貼り付けて有りません

何時から始まったのでしょうか

註  1

翌年、4月の小笠・掛川マラソンに於いて3時間58分の記録で完走しました。念願の「サブ・フォー」を達成しました。大塚君は転勤してしまったので、タイムは分からないが、「サブ・スリー」達成は間違いないと思う。

2017年8月現在、これまでに完走したフルマラソンの回数は155 回である。

実を言うと2015年11月の「揖斐川マラソン」を最後に「フルマラソン」大会に参加していません。その年の12月に腰痛椎間板ヘルニアを患い、歩くことも困難な状態陥ってしまった。昨年5月に手術を受け今年からランニングを再開している。腰の状態は万全に近い。11月の「揖斐川マラソン」に新たなる気持ちで挑戦の予定である。(腰痛ヘルニア闘病記は近々に上梓する予定である)

 

                                           2017年8月4日  脱稿

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