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阪神淡路大震災から四半世紀なんですね

阪神淡路大震災から満25年

平成7年 01月17日 午前5時46分

そうですね。阪神淡路大震災から25年なのですね。

大地震そしてその後

前にも話したことがあると思いますが、その早朝、午前5時46分、八百津でも結構大きな「ドーン」という衝撃音がありました。次男の陽は前年の11月18日に生まれたばかりでした。女房と三人で川の字になって寝ていました。とっさに陽(あきら 次男)の上に覆い被さりました。地震はそれで終わりました。。点けたテレビジョン放送では、余り地震情報は出ていなかった。8時過ぎになると大阪で、阪神で大きな地震があり、急救急車が出動している。連絡が取れないので、詳しいことは分からない。電話は不通状態だとアナウンサーが話していました。私はまだ携帯電話を持っていませんでした。使い始めたのは平成9年ぐらいです。まさか! まさか!!(小泉総理の曰く 昇り坂、降り坂、そしてまさか)夕方の大火災の映像を見るまでは高をくくっていました。しかし、ブラウン管に現れた映像は、惨絶でした。ビルは倒壊し、神戸の街は、長田区には火の手がどんどんと燃え移っていました。建物の下になって叫ぶ人がいるのだが助けられない。火の手が迫ってくる。見殺しにしたという映像も見ました。被災者の涙ながらの話も耳に残っています。3日3番燃え続けましたね。阿鼻叫喚、紅蓮の炎の灼熱地獄絵だったと思います。都市直下型の、マグニチュード7の大地震だった。阪神高速が倒れ、バスが危機一髪助かったり、橋脚に潰されたトラック、次々に報道される想像を遙かに超える大惨事の映像に釘付けになった。

日本人にとって地震とは

 この日本列島に棲む以上、明日は我が身だが、・・・・。とてもこれだけの災害には太刀打ち出来ない。何か自分に出来ることはないだろうかと考え探し、そして外来で義援金活動を始めました。こんな未曾有の大災害に遭ったら誰もが茫然自失になる。捲土重来を期す勇気もエネルギーもなくなる。「地震・雷・火事・親父」とはまさにじゃれ事である。地震の恐ろしさは広い地域全体が同じ被害を受けてします。隣の人、隣町の知人に助けを求めることは不可能だ。人生の中で最も恐ろしい災害は地震だ。立ち上がれない。だからこそ、援助しよう。どうしようもないやるせなさを、義援金という形で解消しよう。今援助しておけば、自分が地震で壊滅的被害を受けた時、今度は助けて貰える。そう思い、そう信じ行動した。

 毎日の報道で死者はどんどん増えていきました。最終的には、6437名の方が亡くなられました。 建物の下敷きになった方が大半でしたね。如何に神戸でも寒かっただろうと思います。即死でない方も沢山おられたでしょう。運命です。宿命です。百八の煩悩の1つです。閑話休題 煩悩は何故百八あるのか知っていますか。人生は四九・八九です。

4x9=36,8X9=72 36+72=108だそうです。

納得したような、馬鹿にされたような気分ですが・・。

芦屋市でのボランティア救援

 その頃私は可児のボーイスカウト第1団、カブスカウトの副長という役員をしていました。3月の上旬、団の希望者で芦屋市に救援活動に行きました。勿論震災から2ヶ月しか立っていませんでしたので、災害地に入るには事前申請が必要であり、検問がありました。金曜日の晩に出掛け日曜日の晩遅く帰ってきました。ルシーダにティッシュペーパーを大量に詰め込んで持参しました。多くのメーカーさんに協力してもらいました。ボールペンも持参しました。漫画も、週刊誌もエロ本も持って行きました。芦屋高校の体育館が活動場所でした。夜が明けて眼前に広がった景色にただただあっけにとられました。想像を絶していました。女性陣は炊き出しを始め、我々は市役所に挨拶に行きました。市役所の机の端には滑り止めが置いてありました。天井から分銅を点けて吊した糸と窓枠のサッシは平行ではない。5度ではない、10度ぐらい傾いていました。それでも、市役所の建物はまだ良い方でした。他の建物は見る影もありません。戻って体育館の中を診察して廻りました。不眠の人と腰・膝の痛い人が多かった。お腹の調子が悪くて下痢をしている老人も多かった。丁寧に、ゆっくりと話しを聞くことしか出来ませんでした。でもティッシュペーパーとエロ本は喜ばれました。涙ながらに被災直後の惨状を語る老婦人の話に、私も涙しました。それでも「必ず、日本は立ち直る。関西も復興する。甦る」と言って励ましました。そんな事しか出来ない自分がもどかしかった。運動場では自衛隊がお風呂を沸かしていました。食べ物も炊き出していました。金曜日も土曜日も車中泊です。結構寒かった。でも体育館の人達はもっと辛いのだと言いきせていました。便所も本当に仮設のままでした。お風呂は自衛隊が駐屯して湧かしていました。

友人を訪ねて・・

日曜日の午前中に少し自由時間が出来たので東灘区に棲む大学時代の友人に連絡する。「家にいる」との返事でした。電車を乗り継ぎ、彼の家を訪ねました。道路は亀裂が入ったままです。震災直後、神戸中央病院に出向いたまま1週間ほど帰ってこれなかった。家も心配だったが、何ともならなかった。奥さんは「この人は何時もそうだから・・・・」「でも、今回は心細かった」とこぼされていました。

彼の家の真正面に小路があり、その突き当たりに家がありました。

「佐藤!おかしいと思わないか?」

「えつ?」「何!」

彼は一枚の写真を見せてくれました。

その写真には突き当たりの家の写真写っていません。

平行移動したのですね。それを知って本当にビックリしました。

彼の、奥さんの話を想い出してみる

毎日、子供達と水汲みを、水貰いをしました。遠くまで買い物に出掛けました。電気は来たけれど、水道とガスの復旧はだいぶ後だった。

家の中の棚はすべてひっくり返り、陶器とガラスは殆ど割れてしまった。生きていれば何とかなると思っていますが・・・青天の霹靂というのか、全く用心のないところに、あの大地震は衝撃だった。余震が来たら終わりかなぁと思ったこともあったよ。

2ヶ月経って笑いが戻ってきたが、心の余裕が出てきたが、本当に明日のことが考えられない毎日だった。

 私は、震災を経験をした訳ではなく2ケ月後を一瞬を垣間見ただけである。しかし、その地震災害のパワー(ど迫力・言語を絶する様)を感じることが出来た。

その頃の応援ソングが「TOMORROW]だったと思います。

TOMORROW (岡本真夜)

涙の数だけ強くなれるよ

アスファルトに咲く花のように

見るものすべてにおびえないで・・・

 

2004年の新潟県中越地震が平原綾香の「jupiter] 

2011年東日本大震災の応援ソングは「花は咲く」であり、「春よ来い」「hei和」

悲しみから立ち上げるときの歌は心につよく響くけれど、響かなくてもいいから災害が少ないといいですね。

災害大国、日本列島に棲むものの運命ですね。

ケ・セラ・セラですよ。

地震の記憶

地震の記憶を辿っていくだけで人生が語れるほどに多いのですね。

私の記憶にあるのは、

1960年(昭和35年)5月23日

チリ沖地震津波   津波で142名がなくなりました。 私は、伊勢志摩に小学校の修学旅行中でした。二見浦の紅葉旅館に泊まっていました。朝起きると波が押し寄せてきていました。この高波の原因は何なのか誰も知らなかった。チリ地震の影響だと言うことは2.3日後、ひょっとすると1週間ぐらい後に知った。英虞湾の周遊観光遊覧船に乗ることが出来なかった。夫婦岩の綱が切れていたような記憶もあるのだが、間違いかもしれない。

1964年6月

新潟地震    コンビナート火災の写真が目に焼き付いている

 

1968年5月16日   十勝沖地震    

 大学の教養部の1年でした。中沢教授の基礎生物の授業中でした。 ざわつく学生に一言「今君達に必要なものは学問です。席に座りなさい」何事もなかったかのように授業を続けられました。京都大学出身の素晴らしい学者でした。

1978年12月      宮城県沖地震  

山岳部の同級生で東北大学の講師をしていた鈴木も被害を受けた。ブロック塀が倒れて死者がでた。この地震の教訓からブロック塀に鋼の鉄芯入るようになりました。

 

1983年5月26日    日本海はるか沖地震   

 西海岸に津波が押し寄せ、死者があった。

 

1994年12月28日  三陸はるか沖地震   

 八戸の友人黒滝君がプーケットに向かう汽車に乗る時地震が発生した。

 

1995年1月17日         阪神淡路大震災   

        都市直下型大地震 高速道路は倒れ、鉄道は寸断された。 

 

2004年10月        新潟県中越地震

新幹線が脱線し、止まった。名古屋金山の全日空ホテルで愛知医大の泌尿器科教室の同門会の最中でした。シャンデリアが揺れた。

 

2007年7月          新潟県中越沖地震    

 東京電力柏崎原発に亀裂が入った。 高速道路に段差がありました。

 

2011年(平成23年)3月11日  東日本大震災 

             現在完了進行形の大地震ですね。

我々はこの大地震から何を学び、後世にどう伝えることが出来るのでしょうか。

 

2016年(平成28年) 4月14日 21時45分頃熊本で地震あり。

深度7です。MA6.5 我が家には『陽』のゴルフ部の同級生が泊まりに来ていました。
04月15日
熊本地震は、初発は14日2116分、最大は16日未明、M7.3(阪神大震災級) 

大学の同級生の佐藤佐内君にお見舞いメールを出しました。
地震は全く突発、予知出来ないから耐えられる。しかし日毎にひどくなる地震というのは最大の恐怖だね。
いわゆる内陸直下型活断層地震であり、2004年に起きた中越地震同様に多くの余震が続いている。

、規模の大きいM6・5の地震発生後に、さらにそれを上回る規模の本震が発生した記録などが存在しないことから、
「3カ所で別々の地震活動が発生している。経験のない地震の発生である。
震度6以上が4回 (震源が浅いため、震度が大きい)

前震  04/14 2126 益城町 7 M6.5  

本震  04/16 0125       M7.3 

    0416  0355   阿蘇  M5.8   

    0416  071   大分   M5.3
             
この4つの地震は別府島原構造体に沿って起きている。九州が南北に引っ張られてその間の幅の広い溝である。・・中央構造体に似ている。
127年前(明治22年)同じ地方で、ほぼ同じ時刻に同規模の地震があったとの記録がある。

これまでの震度7の地震
1995年 阪神淡路大震災    M7.3
2004年 中越地震       M6.8
2011年 東日本大震災     M 9.0    海溝型地震 プレートが滑り込んだ大規模な地震
2016年 熊本地震       M6.5(16日未明にはM7.3を記録・・本震・深度は7)
東日本以外は活断層型である。
04月17日
募金活動が始まっている。東日本の時のような悲愴感はないが、日本列島に棲むという事はいつ何時自然災害に遭うかもしれないという覚悟が必要ですね。まだまだ、余震がひどい。
04月19日
ご免なさい。本当に申し訳ないのですが、スクラップアンド・ビルドです。
04月21日
1週間の地震の回数。深度4以上91   深度1以上 752回
05月03日
大雨の予想である。余震も相変わらず続く。1000回以上である。

堤防の決壊が心配されている。梅雨はそこまで来ている。この連休中、ボランティアが全国から集まってきている。日本の素晴らしいところだね。災害列島だからね。私もそろそろ動きましょうか。

2018年(平成30年)9月6日       北海道東部胆振地震 

午前 3時8分 夏の真夜中の大地震でした。M 6.7 この地震の特徴は震源地が深かったこと、山崩れが多発したことである。そして

北海道ブラックアウト名付けられた「全道停電」事故である。復旧するのに1週間以上かかりました。

 

 

 

 

 

                                           起稿  平成27年 1月19日

                                         脱稿   令和   2年2月14日

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