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一人のドラゴンズファンの軌跡

昭和24年生まれの男の子にとって野球は、プロ野球はプロ野球選手はあこがれの的でした。そしてここは中日ドラゴンズの地元です。巨人全盛期とはいえ、ドラゴンズファンであることが、共通の話題であり、一緒に遊んで貰える条件でした。お土地柄です。
こんなこともありました。
「ナカサンシン腕時計が午後7時の時報をお知らせします」ラジオにかじりついて中継を聴いている時にこのCMほど癪に障るものはなかった。昭和30年前橋高校から中利夫が入団。センターを守る小柄な左バッターだった。首位打者にも輝いた好打者でした。「一番センター中」の呼び出しを聴くのが楽しみだった。その大好きな「中」を「ナカサンシン」とはどういうことだと一方的に怒っていた。秒針のついた3針腕時計という意味だと教えて貰ってもラジオから流れてくるといつも不愉快だった。やがて森が江藤が権藤が続々と入団してくるのだった。そんな環境で育ったから生粋のドラゴンズファンである。体に染みついているという表現がピッタリかもしれない。
実を言うと、私自身は野球の経験は大学卒業後の草野球と医局野球だけである。子供の頃(中学校)は野球部に入るには、けんかが強いこと、足が速いこと、女の子に人気があることが必須3条件だった。少なくとも2つを満たしていないと気後れがした。私は、どれにも非該当だった。ドラゴンズを熱狂的に応援し、高校野球が大好き(中京商業が春夏連覇をしたのは昭和41年1966年)だったが、実際の経験はなかった。・・・ついでに東京オリンピックは昭和39年(1964年高校1年)、岐阜国体は昭和40年(1965年高校2年)です。いつかは、「ドラゴンズと私」ということを書いてみたいと思っていた。そんな折、今年の2月(平成29年・2017年)に山本昌広の講演会がありました。先ずは手始めにその講演会のことから紐解きたいと思い始めました。
話があちらこちらに飛びます。心の向くまま、気の向くままの心の放浪の記録です。読むには耐えないかもしれません。読みずらいかもしれませんが、ご容赦下さい。私のホーム・ページの読者の反応を見ながら書き進めていこうと思います。
それでは平成29年2月12日(日曜日)の山本昌の講演会の私的記録から始めます。

※誤字・脱字、そして私の勝手な解釈による誤解、曲解は十分にありえます。ご留意下さい。山本昌広氏に、内容について許可を得た訳ではありません。聴いたことを後から書き留めただけのメモ帳です。

                              

継続する心
山本昌広の講演会より

 

ニュースゼロのスポーツ・コメンテイターをやっております。
今シーズンのセントラルの優勝予想は広島にしました。なぜなら、去年最下位予想を広島にして大失敗をしました。評論家としてちょっと情けなかった。2年目の今年は観る目をしっかりしないと・・。
ドラゴンズは有望な新人がいます。が、今年は5位か6位だと思います。
柳と京田を褒めていました。ゲレーロは阪神にいたマートンに近い選手それプラス長打力がある。期待できます。それでもよくて5位です。

 

  • 小学校3年から野球を始めたが補欠人生
  • それでもいつも準備していた
  • 6年生から、夕食後4キロのランニングと素振り100回
  • 素晴らしい出会いがありました
  • どん底にこそ人生の転換期が訪れる

 

茅ヶ崎市中学校3年の時に最初の転機が訪れた。
エースで4番のとても叶わない奴(友人・選手)が試合直前に腰痛で投げられなくなった。登板の機会が訪れた。??大会で優勝した。
日大藤沢から誘いが来た。横浜商業からは来なかった。
1年の夏、準々決勝で負けた。次の日から6キロのランニングと投げ込み200球を始めた。2年の夏・1回戦先発・昌完封。2回戦先発新井ノーヒット・ノーラン。3回戦完封昌。4回戦先発新井ノーヒット・ノーラン。
5回戦相手は、横浜商業でした。当然先輩が投げると思っていたが、私だった。2-3で負けた。その場で、座り込んで大泣きをしました。
次の日から後輩と同じランニングと投げ込みをしました。
3年次も同じ高校に負けた。その夏、神奈川県選抜チームが編成された。横浜商業の三浦将明(後に中日に入団)は全日本高校選抜に抜擢された。そのお陰で県のエースを任され、強いと評判だった韓国選抜に勝つことが出来た。プロに入りたかったが、スカウトの影もなかった。どこからも誘いはなかった。そのまま日大に進んで学校の先生になるつもりだった。11月x日イヤホーンでドラフト会議の結果を聞いていた。中日は享栄商業のの藤王、阪急は中京の野中、巨人は池田高校の水野を指名しました。
授業中に校長室に呼ばれた。不祥事かと思ったが中日に5位で指名された。父はドラゴンズ・ファンだったが、私はジャイアンツファンだった。
諦めないで努力してきたのがよかったと思います。
明けて、2月1日、その頃ドラゴンズは宮崎県の串間でキャンプを張っていました。ブルペンで投げる、コマツ・タカマサ・牛島・郭源治・・4本柱の投球を観て膝が震えました。やっぱ来るべき処じゃなかったと・・。
4年間、勝ち星なしでした。
5年目、新人の立浪の半分の給料で契約を更新しました。オープンの最初の試合で先発して7失点をしました。星野監督から「死ぬまで走っていろ」と言われ8時過ぎまで走っていたら、マネージャーが「星野監督が用があるそうだ」と呼びに来た。部屋の前で平手で何度も自分の頬を張って気合いを入れました。そして部屋に入ると「アメリカに行け」「ドジャーズと交換留学制度があるから・・・」
「11月まで帰ってくるな」と言われた。
言い分もあったが、反論の許されない人、口答えの出来ない人であることは十分承知していたので従いました。始めは全くやる気がなかった。・・にやにや笑っていましたが、だいぶやられたでしょうね。(筆者の感想)
そこでも大きな出会いがありました。アイク生原さんに出会いました。二世ではありません。日本人です。ドジャーズのオーナー(オマリー)補佐役だった。日本の選手の世話に一生懸命尽くしておられた。本当に野球の好きな人だった。彼の教えは上から投げること、ストライクを投げること、低めに投げることボールをリリースするのは出来るだけ前の4つだけでした。
新しい変化球の習得を目指した。が、思うように曲がらない。或る時、内野手同士のキャッチボールを観ていてヒントを掴み、スクリュー・ボールを習得した。面白いように曲がって、ストライクが投げられた。それまで4軍の敗戦処理投手だったが、習得したボールを投げたところ三振・・勝ち投手になった。それから先発にまわった。4軍のオールスター戦で使った。勝ち始めた。8月、帰国するように連絡が来た。帰りたくなかった。が、翌日星野監督から電話が来た。「ハーイ」の一つ返事で帰国。ドラゴンズは優勝戦線の真っ最中でした。5勝しました。完封もした。優勝もした。給料は4倍になった。1988年、昭和53年のことである。
97年、チームは最下位、自分は最多勝利、そしてFAの権利を得た。せっかくの機会だから他の球団の評価を聞きたいとか、まだペナントレース終わったばかりなのでと口を濁していた。そんな時、スポーツ新聞の片隅に「わしはそんな教育はしとらん」という記事が載っていた。「星野監督が怒っている!!」と恐れおののき、球団事務所に駆け込んだ。某在東京チームの提示金額の半額で契約書に判を押した。ニコニコとしてとても楽しそうに懐かしそうにしゃべっていました・・・怖い存在だけれど星野監督が好きなのすね。(筆者の感想)

自分は世界で一番幸せな野球人。
悔いはあるが、後悔はありません。
悔いは日本シリーズで一勝もしていない。
ペナントレースでももう一勝すれば、大リーグも含めて世界最高齢の勝利だった。等など・・
が、人生に結果に後悔はしていない。

体力の低下はどうしようもない。20歳の選手と一緒に練習をするのは無理だ。
その代わり、休むことなくすることにした。大晦日・正月元旦を除いてトレーニングをして、備えた。開幕に間に合うように、

将来の監督についても含みを持たせた発言がありました。
落合GMがいなくなったので、私も候補の1人だと思います。落合さんは、「中日の生え抜き」はダメだというのが大前提の方です。仲は悪くありません。話ぐらいはします。立浪のように対立はしていません。
立浪・山崎・私の確率がそれぞれ1/3ぐらいじゃないでしょうか。
少なくとも近いうちにコーチになります。

18歳から50歳までの32年間プロ野球の現役をやることが出来ました。
持続する心を持ち続けたお陰だと思っています。そしていつも備えておく。

 

2017年2月12日
八百津町ファミリーセンター
八百津町体育協会創立60周年式典

 

良い奴ですね。
すっかりファンになりました。
監督にしたい名球会の選手ですね。
長々と書きましたが言いたいことはこれです。

コップの水を飲むこともなく。大きな身振り手振りもありませんでした。野球の解説と同様に鋭い洞察をしながら、自分の歩んできた人生に自信を持って、そして謙虚に話しました。人柄がにじみでていました。そして32年間のプロ野球の実績がその経験談を豊かなものにしました。
素晴らしい講演会でした。よかったよ。

書き忘れ
父親は毎試合観戦に来ていた。
高校3年の時仙台で東北高校と対外試合をした。「今日は親父さんは来ないだろうな」と部員に言われた。自分も来ないと思っていた。が、試合前にはネット裏に座っていた。生命保険の外交員をしていたので、わりと時間が自由になる職業だったようです。毎試合・毎試合観戦に来てくれていました。
母親には言葉にならないぐらい感謝しています。練習から遅く帰ってくる。どんなに遅く帰ってきても翌朝には、朝練に間に合うように鞄の中に洗濯したユニフォームと弁当が入っていた。確かめなくてもいつも入っていた。有り難かった。

書き終わって思い出し、おもいつきました。
昌の「ノーヒット・ノーランの観戦記」のことを思い出し、寄稿することを思いつきました。探してみたらありました。その日の日記を読みながら記憶の糸を辿りました。
ノーヒット・ノーランの大記録(最年長記録)

 

集合写真

 

平成18年9月16日(土曜日)午前中雨今日の試合は3時からのディ・ゲームなので午前中の診療が終わった1時過ぎに「エイ・エイ・オー」の掛け声と共に「ほのぼの号」で出発です。同行した応援団は佐藤クリニックの職員3名(赤塚・高木・加納)、東京組(村瀬友哉・希史・鈴代)そして陽・美尋・孝充そして美喜(私の母85歳)の10名です。「プライムワン」で観戦しました。「プライムワン」とは名古屋ドームのバックネットの上の方に設置されているバルコニー付きの特別室です。私達の部屋(席ではありません)は貴賓室の隣の401号室です。ドームは超満員です。優勝と先発の山本昌の200勝への期待(188勝)が大きく膨らんでいた。前日は川上憲伸で勝っています。優勝へ一歩前進です。部屋について早速乾杯です。昨日の勝ちゲームのお祝いと今日の前祝いです。吉兆の予感がしていた。
1回裏井端の先制ホームランで先制、相手の気勢をそぐには絶好のタイミングのホームランです。そして4回、2塁に福留をおいてタイロン・ウッズの31号ツーランホームランが飛び出しました。福留の二塁打ですが、進塁は暴走に近かった。「あっ!!」と悲鳴に近い声援が球場に・・・。しかし、赤星の送球が逸れたセーフでした。あの走塁は、赤星の隙をついたということでしょうが・・・。その興奮冷めやらぬうちにウッズのライトスタンドへのホームランです。驚喜・歓喜の大騒ぎです。
先発の山本昌は絶好調です。阪神につけいる隙を与えません。真に「快刀乱麻」の状態ですね。阪神には全くチャンスがありません。スコアボードの阪神の「H」はゼロのままです。4回か5回に赤星のサードゴロを森野がエラーしました。これが阪神の初めてのランナーですが、後続を断ちました。7回頃に陽(次男)が「ノーヒットだ。無四死球だよ。お父さん」と言い始めた。「興奮!」「興奮!」でノーヒットのことは意識していませんでした。完全試合かとも思ったが森野のサードゴロエラーが中日側のスコアボードに記録されています。「E」の文字あり。「先ずは勝つことが先決だよ」「ゲームセットが宣告されてからだ」とわめきながらも大興奮です。もう昌の一球一球から目が離せません。9回表、大歓声で球場が沸きます。昌の登場です。いつもと変わらない仕草です。頼む!打たれるなよ!と祈りながら固唾を呑んで見守る。代打が出てきたが何の波瀾もなく、あっさりとスリーアウトです。球場は大騒ぎです。大記録がこの瞬間達成されました。インタビューがよかった。「森野のエラーがあったのでこんな素晴らしい記録が達成出来ました」「あれがなかったらヒットを打たれていますね」
この歴史的な場面に立ち会うことが出来たことを心から喜んで、ビールを何杯も飲んで乾杯です。気持ちよく酔っ払いました。隣の部屋の方々とも喜びを分かち合いました。
山本昌おめでとう!!よくやった!!
41歳11ヶ月の記録達成です。勿論最年長記録です。

 

スコアボード
集合写真

 

9月16日
今日(9月18日)の「中日春秋」の記事に釘付けになりました。
記録にも記憶にも残る登板をスタンドで観戦する機会に恵まれて、超然ともいう感じで黙々と投げ姿に胸を熱くさせて貰った幸福を思う。
私にはこの様な視点に立ったものの考え方が足りません。有りません。
私に言わせれば、昌のノーヒット・ノーランも、中日の連勝もこの俺が応援しているからだ。この俺がドームに足を運んで応援したが故の大記録だ。思い上がりも甚だしい。が、「幸せ」にそう思っている。ファンとはそういうものだ。そう思えなければファンではない。

 

9月18日
追記
この年、ドラゴンズは10月10日の東京ドームでの巨人戦延長12回の死闘を福留・ウッズの大活躍で制し勝った。そしてリーグ優勝をしました。残念ながら日本シリーズでは日本ハムと対戦したが、日本一になることは出来なかった。翌年2007年には日本一に輝いた。
2017年(平成29年3月5日)

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