佐藤クリニックロゴマーク

山学部の先輩工藤光隆を語る 私の尊敬する津軽のもつけ

私の歩んできた一生を記録に残しておきたい。しかし、残すに値するのか? 答えは明瞭である。値せず!!

でも残すと決めたことなので2年前から細々と続けている。立ち止まって振り返ると残り時間は決して多くない。先を急がねばならない。「徒然草」に曰く「出家しようと思い立ったら直ちに行動したほうがよい。あれをやってから、これをやってからといっていれば結局出来ない」「時が過ぎてします。」そこで3月の終わりに八戸に工藤さんを訪ねた。

3月23日(土)

 午前の診療を終えて出発する。多治見発 1400分の快速である。東海道新幹線・東北新幹線を乗り継いで2000分到着する。黒滝の奥さん麗子さんが迎えに来てくれた。そのまま「ボテジュウ」に急ぐ。そこには工藤さんの他に、須藤君、真鍋夫妻、そして「クリエイトライフ」の岩さんも集まってくれていた。

24日(日曜日)  朝起きると雪が舞っている。結構に寒い朝である。恒例のホテルの朝トレーニングをする。どうもこの時、楠美君の長男の雅文君と逢ったらしいのだが私は全く気がつかなかった。工藤さんとは勤務先の八戸中央高校の化学準備室で話しました。

 

為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり

    山岳部の先輩工藤光隆を語る  私の尊敬する「津軽のもつけ」

工藤さんは、24年1月生まれの私とは同学年ですが、山岳部では3年生と新入部員でした。(一浪であり、2年生で入部)入部した時には既に巨大な存在でした。弘大山岳部=工藤光隆は過言ではありません。私と同じ上背ながら真に小さな巨人でした。ド胆を抜かれたのはその人並み外れた腕力とバランス感覚である。そして後輩思いの器量人。

工藤さんと私の織りなした思い出に想いを馳せる。どのページをめくっても溢れるばかりの想いで一杯だ。『私の人生に一番影響を与えた津軽のもつけ』であり、その人生を私の心の中で反芻してみたかった。ある意味「心酔していた」とも言える。せめてその一部だけでも真似ることを意識して生きてきたが、何も真似ることが出来なかった。その行動の一部始終を見て、観察してその思考過程を知りたかった。

最近の20年間は、こんな事を考えて生きてきた。どんなことでも良いから、同じ土俵で競ってみたい。そして越えたい。工藤さんに『ジューエン、おめえでもやるじゃん!』と一言褒めて貰いたい。お互いが眼の黒いうちに・・・。

 私(タカさん)は、ランニングは、カタツムリのような速度だけれど続けています。「たゆまざる歩みおそろしかたつむり』の心意気です。この私を支えている、私の目標は、何時の日か工藤さんと山歩きをしたいと思っています。そして、その時「ジューエンも歩けるようになったものだ」との言葉をかけて貰いたい、その一念です。

 

ジューエンというのはタカさんの大学山岳部でのニック・ネームである。鳶色の瞳、そして大きな目玉という事から大学生協書籍部のお姉ちゃんが付けたあだ名である。あのお姉ちゃんは可愛いかった。顔を出すといつもニコニコとして話しかけてくれていた。今は、年齢相当の眼瞼下垂でその面影はない。

 

ひろさきだいがくさんがくぶの学生だ。

山岳部に入ると早速洗礼を受けた。「いいかおまえらは今日から弘前大学山岳部に所属するのだ」「鈴木は弘前大学理学部に入学した学生だが、弘前大学山岳部の学生でもある」「下宿の叔母さんに「佐藤さんは何学部の学生さんですか」と聞かれたら、僕は山岳部の学生ですと答えろ。」訳が分からずきょろきょろとしていると黒板に医学部(いがくぶ)と山岳部(さんがくぶ)と書いて『がくぶ』は同じだべさ.違いは『イチ』と『サン』だけだ。そのくらいの覚悟でいろ。つもりでいろと言うことだった。

そして70歳の現在

ひろさきだいがくさんがくぶ卒業

この言葉の響きを今でも意識の中心に置いている

この話には後日談がある。

ノーベル医学賞を受賞された山中伸弥京都大学教授もテレビのインタビューで同じ話をしてみえた。私は皆から、山中は「いがくぶの学生ではなくてラグビーぶの学生だなぁ」と揶揄されていました。

でも、今ではその事を誇りに思っています。

 

書き加えておきますが、山中先生は『』が同じだけです。私達は『がくぶ』が同じです。レベルが違います。

 

新入生歓迎登山

4月29日(昭和天皇誕生日)にあわせて新入生歓迎登山が岩木山で行われた。始めて登る雪の山である。百沢から登った。焼け止まりヒュッテの隣りにテントを張る。

歓迎コンパが開催され、工藤さんが「新人哀歌」を唱う。力強く、そしておまえらの一年間はかくの如しであると朗々と唱いあげた。その歌詞が心に沁みた。チョットとんでもないところに入り込んでしまったと躊躇していると、本当にとんでもないものを観てしまった。

2本の割り箸を右手の指に間にはさむ。そしてその割り箸を中指で折ってしまうのである。

詳しく書こう「割り箸割り」

右手を手掌を下にして開く。中指を曲げて下に下げる。人差し指と薬指との間に出来た空間に「割り箸」を挿入する。勿論横置きです。この割り箸を、中指を握る力で「メシィー・メシィーメシー」と折ってしまう。試みると、とんでもないことだと分かる。割り箸は割れない。人差し指と薬師に割り箸の跡が出来るだけだ。そしてひどい痛みだ。

誰も真似ることの出来ない秘技はもう一つあった

ウェイトリフティング 片手45KG クリーン&ジャーク

45キロのバーベルを右手だけで持ち上げてしまう。ウェイトリフティングの片手ジャークで45KGを持ち上げちゃうのだ。絶妙のバランス感覚と怪力である。新入生では両手の(50+α)KGが精一杯である。

この2つを見せられた新入部員は、ただただ息を呑むだけだった。その日から絶対的な存在になった。

 

屍体(おろく)確認番号

昭和44年7月上旬、夏山合宿の計画が発表された。そして同時に新入部員6名に部員章が渡された。その年の部長は成田昭宣、サブ・リーダーは工藤光隆だった。

「おまえ等に部員章を与える」「但し、これはあくまで屍体確認番号用だ。夏山で遭難し、捜索に難渋し、遺体のオロクの識別が困難なことがある。見つからないことがある。その時の唯一の拠り所はこの部員章だ。」「上着の襟にしっかりと止めておけ」「合宿が終わったら回収する」「正式な部員賞の認定、登録は冬山合宿終了後だ」

サブ・リーダーの説明の声が部室に響き渡り、空気が張り詰めた。私は、大学2年の4月に山岳部に入部した。同期入部したのは、鈴木孝男(理学部生物学科)、長谷川哲夫(人文学部 英文学)、野中猛(医学進学課程)、野々村修(医学進学課程)と私の5名である。もう1人いた。鳴海さんだ。

 

その頃、山岳部部員に愛読されていた山岳ベストセラーに「山岳サルベージ」という本がありました。東京の緑山岳会の「魔の山谷川岳」の遭難救出活動・活躍を書いたものです。その本の中で遭難者の遺体を「おろく」と呼んでいた。当然わが山岳部でも「おろく」という言葉が使われていた。

 

部員章

 私の部員番号は112であった。

AACHUはACADEMIC ALPINE CLUB OF HIROSAKI UNIVERSITYの略号である。

おそらく北海道大学山岳部がAACHなので,同じイニシャルでは拙かろうということで『U』を付け足したのだそうです。この部員章は大切に保管してきたはずで有るが、探してみると見つからない。どこかに仕舞い込んでしまったのであろう。写真は仙台の鈴木君から借りた。

 

無償の征服者

卒業後、物理化学教室の片桐先生の片腕として無給で研究を支えていた時期がある。「双極子モーメントの測定による分子構造の決定」研究である。

大学を卒業して理学部の専攻科に残った。そして専攻科を終了後は物理化学教室の研究生としてその「双極子○△□・・・」を黙々と当然のごとく1人でやっていた。青森県の教職員として採用され、七戸高校に赴任した。土曜日の午前中の授業を済ませて大学に来る。そして火曜日の早朝まで変則3泊4日を研究室で過ごした。与えられた困難な仕事に没頭していた。そして火曜日の朝礼までに勤務先の高校に戻る。彼をおいてこの仕事を成し遂げることの出来る人はおるまい。

この研究がが物理科学上どんなに大切な仕事であるのか何度も聞いたが忘れてしまった。忘れてしまったし理解する頭の構造になっていない。シュレーディンガーの波動方程式を論じ、エンタルピー論を語っていた科学者の一面である。彼にとっては有意義な仕事だから全精力を注いだのではあるまい。恩師片桐教授に頼まれた仕事だから続けたのだと思う。自分以外にこの仕事の出来る人はいなかった。そんな密かな、しかし絶対的な自負もあったはずである。きめ細かい仕事まで1人で孤独に何でも無いが如くに成し遂げたのだと想う。

まさに「無償の征服者」の称号にふさわしい。

 

フランスの登山家リオネルテレイの名著の名前である。何という素晴らしいらしい響きである事よ。アンナプルナの初登頂こそ逃したが、マカルー峰、ジャヌー峰,フィッツ・ロイ峰のファーストサミッターである。

テレイは意思と行動力の人だった。12回に及ぶ海外遠征を行い、そのどれにも成功している。

測定装置は片桐教授が独自に作成したもので、扱いが非常に難しく、職人のような技を必要とした。万人向けの機械ではなかった。誇大誇示ではなくて本当に大胆な仕事からきめ細かい仕事まで1人で孤高にやり遂げていた。

 

ニコンF

ニコンF(35mmフィルム一眼レフカメラの最高峰)   

どんな山行に行く時でも工藤さんの首からニコンFがぶら下がっていた。チタン膜のシャッター音が良かった。

35mmフィルムの一眼レフカメラ 写真そのものは上手でないといつも謙遜していたが、岩登りでも厳冬期の日高でも、滝登りの沢登りでも工藤さんの必携品だった。濡れないように何よりも大事に保管していた。冬山でもシャッターがフィルムが凍らないように湿気を防ぎ、凍結を防いでいた。がっちりした体格で何事にもぶれない姿勢の工藤さんに無骨で頑強なニコンは最高の取り合わせだ。

 

残り時間も多くありません。先を急ぎます。

エピソード  1 工藤さんの父親の死とその年の夏山合宿参加

42年、弘前大学理学部物理化学科に入学した工藤さんはそのまま山岳部に入部した。そして7月の下旬から北アルプス剣岳から穂高連峰での夏山合宿が計画されていた。出発直前に父親が突然亡くなられた。不整脈発作による心原性脳梗塞だった。18歳での父親の突然死である。誰もが夏山合宿参加中止、通夜と告別式に参列して父との別れを惜しむと思っていた。が、工藤さんは当然の如く夏山下宿に参加すると主張した。最終的には明石先生の執拗な説得で合宿参加は諦めた。直接その間の事情を聞いたことはないが、その精神的タフネスサを想う時戦慄を覚える。

エピソード 2  サヤカのビール箱

私が大学を卒業して泌尿器科に入局した夏のことである。ねぶた祭を観てからマットさん、工藤さん、タカさん、後3.4人いたかも・・・。土手町十文字の『さやか』という行きつけの店で飲み始めた。20本入りのビールケースが積まれていく。勿論瓶は飲んでしまった空瓶である。夜中の2時過ぎになって主人がこう言った。

『もうビールがないので、お開きにして貰えると・・・』

『飲み屋にビールがないとは何事か、ビールがないなら俺たちお客は金がない。」

「ビール買ってこい!!」

怒号にビックリしたマスターは角屋という「かくみ小路」にあった酒屋さんをたたき起こしてビールを調達してきた。飲み終わって店を出るともう朝だった。その日は劔岳の夏山に向けて自動車で出かけるはずだったが取りやめになった。元気なのは工藤さんだけだった。どれだけ飲んでも乱れるという所を見たことがない。記憶にない。私は前日からひっくり返ってダウンしていた。兎に角お酒は強かった。ビールは注がれたら飲み干すという主義だった。飲みたくない時はコップを伏せればいいという主義だった。だが、コップを伏せている姿を見たことはない。

工藤さんの記憶とタカさんの記憶の違いがあるが小説風に仕立てました。

 

エピソード  3

小さな親切 大きなお世話

 

昭和30年代後半から広まった標語の1つがこの「小さな親切運動」だった。賛同する人もあれば、押しつけはイヤだと考える人もいた。工藤さんの主張はこうだった。「親切は人に言われてやるものではない。

人に親切にするにはそれに見合うだけの苦労を、苦しみを、辛さを経験したものだけに許される。そうでない者の無遠慮な親切は相手にとって大いに迷惑なことがある」「むやみに手出しをするべきではない」

こうも言っていた

『人に親切にする前に自分が人の世話にならぬようにする方が重要だ。

これは明治の偉勲後藤新平が『ハルピン学園』の教えとした自治の三訣(さんけつ):「自助、互助、自制」  『人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように。そして報いを求めぬよう』

 

1963年の東京大学の卒業式で、茅誠司総長(当時)は「“小さな親切”を、勇気をもってやっていただきたい。そしてそれが、やがては日本の社会の隅々までを埋めつくすであろう[親切というなだれの芽]としていただきたい。やろうとすれば誰でもできる“小さな親切”を絶えず行っていくことが大切です。」

この卒業告辞から3ヶ月後の6月にスタートしました。

 

エピソード4  

世の中に寝るより楽はなかりけり 浮き世のバカは起きて働く。

 

山の中のテントでも、部屋で雑魚寝をする時でも寝る前になるといつも口癖のようにこの呪文を唱えていた。そして枕を3つ、或いは4つ叩く。それは何の呪いですかと聞くと今の時間を確認して明日の起床時間の数だけ枕を叩く。そうすれば自ずと眼が覚める。

愚者、怠惰者のタカさんには『世の中に寝るより楽はなかりけり』だけを守って70年生きてしまった。

この言葉は彼にとっては自分への戒めだったのだろうか。

 

エピソード  5

脚は脚 頭は頭 別物だ

脚が棒のようになったら、その棒になった脚を杖にして歩け。

山で歩けなくなり、遅れるメンバーが出始める。その時口から出てくる励ましの言葉は強烈だった。『疲れて足が棒になったら、その棒になった脚を杖にして歩け』『おめえが歩かねば、誰もメシを食うことが出来ない。」そして歩き出す。歩みが止まる。すると靴先で立ち止まった部員の靴の踵を蹴る。無言の圧力である。2時間でも3時間でもテント場に着くまで休むことなく歩かされた。むろん歩かないことには1日の行程が終わらないから、テントも張れない。ご飯も炊けないのだ。そんな時教え込まれた理論はこうだ。

疲労して動かないのはお前の脚だ。胸や頭は別だ。脚は足、胸は胸。別だと考えろ。脚がダルい、エライ、だから歩けないではない。脚はダルいが心は苦しくない。腰も大丈夫だ。別物だと考えろ。

バカなと思っていたが、最近こんな記述を見つけた。

「痛みは仕方が無いが苦しみは自分次第」

こう自分を鼓舞することで苦痛を緩和し、マラソンを完走するのだそうです。

  アメリカのマラソンランナーであるニコラス・サーロフの言葉

工藤さんの言っていたことは真にこのことだと思った。思いは、漸く理解出来たが、現実の実際の私の行動は休みたいばっかり。思ったが実行は出来ない。

もっと驚くべき事実の記載がありました。

平成17年の富士山登山の折の陽(次男)へのしごき(決していじめや暴力や愛のムチではない)です。

2005年(平成17年)  9月18日   富士登山

山学部の後輩、高橋堅の卒業研究援助という名目で富士山に登りました。この時の詳しい記載は「月周遊旅行に挑戦・竹取物語以来の念願

」を観て下さい。

頂上の小屋がみえる・・さっきまでは小屋の屋根の下を仰ぎ見ていたが、今は小屋の屋根の上の石がみえる。励ましたり、宥めたり、あの手この手で陽を励ます。しかし、陽は止めたくて、休みたくてしょうがない。

「後何回曲がればいいのか・・」と言い始める。

答えはいつも「曲がるのは2回だけ」「右曲がりと左曲がり」『黙って歩け』

「休んでいても頂上には近づかない」「一歩・一歩が頂上に陽を運んでくれる」「ここまで来たからには、登るしかない。黙って歩け」

優しい言葉がけは何の足しにもならない。「足が棒になるまで歩け。」「足が棒になったらその棒を杖にして歩け」「みんな陽の到着を待っているんだよ」「陽が到着しないとお昼ご飯が食べられないんだ」「さあ!後一頑張りしろ」「歯を食いしばって、一歩・一歩足を出せ」

そして、陽の靴の踵を私の登山靴のつま先で突っつきました。

山岳部の掟を教えている自分を意識していました。

脚は脚 頭は頭 別物だ

小さな親切大きなお世話

情けは人のためならず

最後の最後は酸素も少ないのでエラそうだった。疲労困憊していたが、俺に対する反撥と反感だけで登り切った。

 

 

記憶の差がありますが、チョット誇大に書いておきます。

 

エピソード   6

現代文明は便利になったが安全を手放した。

 

この時代(平成31年3月)になっても携帯電話を持たない・使わない。「

折りたたみ携帯派」ですか「スマートフォン派ですか」かという選択ではなくて、MOBILE PHONEを所持しているのか、信念として排除するかという根源的な選択として「持ちあわせない」

 

カード決済はしているかな?していないだろう。インターネットは閲覧しているだろうが、e-mail機能は利用していないよね。

テレビはあるのかな もしかしてブラウン管方式、いや待てよ。この方式の受信機で観ることの出来る電波を流すのは5年ぐらい前に終了したはずだ。どちらにしろNHKの受信料を正々堂々と払わない立場の人ですよね?(払っているそうです.意外でした。)

 

二ツ矢先生の教えが頭に沁み込んでいるのだろう。

山学部の1年先輩に小野さんという人がいた。何よりも電波関係のことに詳しかった。トランジスターラジオ、テレビ、無線機の製造、修理が得意だった。市販品のトランシーバーは高くて、性能も不十分だということで小野さんが部品を調達して自前で造った。そして日高の冬山で使った。最初は2隊の間で上手く交信出来ていたが、極寒の日高の稜線では役に立たなかった。繋がらないと不安になる。お互い相手の無事を確信して行動して事なきを得、無事に合宿を終えた。

 山岳部のOBで理学部の数学科の講師だった二ツ矢先生に冬山の報告に行った。その帰りにこう諭された。「おまえらは根本が間違っている。現代文明は便利になったが、安全は蔑ろにされている」「文明の発達に頼ってはダメだ」「トランシーバーは、文明社会の象徴だ。山登りとは「反文明」ではないが少なくとも脱文明だぞ』「文明の発達に頼って冬山の行動をしてはいかん」「もっと分かりやすくいえば、炊飯器だ。」「タイマーで、朝ご飯が炊けるのが一般化しているが、タイマーを頼るから食べようとする時にご飯が炊きあがっていないことがある」「朝起きて炊く習慣にしておけば、寝坊した瞬間に炊き始めるから間に合う」

懇々と諭された。

文明の発達は人間社会を便利にした。しかし、その代償として安全を犠牲にした」

銀行のシステム障害やら、公共交通機関のダイヤの乱れのニュースが流れる。私はそんな時、この言葉を思い出し己への警鐘にしているだけだが、工藤さんは頑なにこの教えを墨守している。生きた化石的存在である。

 

トランシーバーといっても交信をする前に『これからトランシーバーの交信をします』と大きな声で叫んでから交信のトレーニングをした時代のことである。一体何のためのトランシーバー交信なのだという疑問はつきもの。

 

エピソード  7

素晴らしい記憶力

1970年当時、地球上に国として名乗りを上げていた数は127ケ国ぐらいだった。(1961年に国の数は100を上回り、その後アフリカの植民地の独立による群雄割拠が続いていた)その国の名前と首都を丸暗記していた。そして国旗を識別できるという特技(?)もあった。今日現在(平成31年3月)、国の数は196ケ国である。おそらくこの全ての国とその首都の名前を空んじ、国旗も識別できるのだろう。

「走れコウタロウ』の歌詞を暗記して長じていた。愛染かつらの主題歌『旅の夜嵐』は第二の山岳部部歌として教えられた。最も得意としていたのは『蒙古放浪歌』である。

2人で良く唱った。

 蒙古放浪歌

心猛くも 鬼神(おにがみ)ならぬ

人と生まれて 情はあれど

母を見捨てて 波こえてゆく

友よ兄等と 何時亦会わん

 

波の彼方の 蒙古の砂漠

男多恨の 身の捨て処

胸に秘めたる 大願あれど

生きて帰らむ 望みはもたぬ

 

砂丘を出でて 砂丘に沈む

月の幾夜か 我等が旅路

 明日も河辺が 見えずば何処に

水を求めん 蒙古の砂漠


 朝日夕日を 馬上に受けて

続く砂漠の 一筋道を

大和男児の 血潮を秘めて

行くや若人 千里の旅路

 

負(お)はす「らくだ」の 糧薄けれど

星の示せる 向だに行けば

砂の逆巻く 嵐も何ぞ

やがては越え なん蒙古の砂漠

 

群を抜くコピー能力・持続力

我々の学生時代は手書き、手写しの時代である。授業の講義録であれ、チョットしたメモであれこんな手順が必須であった。先ずは対象物を全て自分の頭の中に一度記憶する。次に紙という媒体に書き写す。これの繰り返しである。今の時代も勿論根本はこの方法である。新聞記事を正確に残したい時などである。或いは講演会の講師のスライド原稿、発言などの記録時も同じである。その記憶容量が凄かった。今回の原稿創りでもその能力は遺憾なく発揮されている。『無償の征服者』の原稿を見て欲しい。書き写してあるのだが、その一時的保存能力が凄いのだ。何度も見直さないで、書き写してしまう。しかも誤りなく。一番端的なことは歌詞を書き写す時に発揮される。カセットテープの停止・巻き戻し・再生を繰り返さないで書き写す人だった。走れコウタロウの台詞を何度も聞かないで書き写す素晴らしい能力者だ。

数字の乱数表がある。足し算をして1分間にどれだけ計算出来るかを競う。これを20回繰り返す。

徐々に計算能力は落ちていくのが、一般的な能力の持ち主だ。ところが、工藤さんは徐々に計算数が多くなっていくのだ。勿論1分間の計算数も誰よりも優れていた。際限なく、30分経ってもどんどん増えていく。

こんな喩えが一番分かりやすいだろう。

顕微鏡を左眼で覗きながら右目で右側のノートにスケッチする能力みたいなもの。我々も組織学、病理学などで訓練を受けてきた。が得意ではなかった。時々顕微鏡から目を離して、スケッチの訂正を余儀なくさせられる。

国の数は難しい。国連は北朝鮮を国として認めているが、日本政府は認めていない。

台湾は中国の横車によって国連から追い出された。日本も認めていない。が、孫文の直径の流れを受け継ぐ「中華民国」である。

                                 第1部完  平成31年4月26日  脱稿

 

電話・FAX

TEL.0574-43-1200
FAX.0574-43-9050