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揖斐川マラソン敗退記(いこか・もどろか・考え中)

韋駄天になりたかった男の物語り

NHKの2019年の大河ドラマが「い・だ・て・ん」だからそれにあやかった使っているのではありません。

私の編成した町内駅伝大会の上石原自治会チーム名は「韋駄天」だった。但し10年前、この漢字は一般的ではなかった。呼び名を何度も聞かれた。堪忍袋の緒が切れて、誰でも分かるチーム名に変更した。その名も「ハシレンジャー」に改名した。

遂に来ました。表舞台から消える時が、日が来ました。この1年はそんな葛藤でした。

「他に能力がない男の、たった一つの逃げ場所がランニングです。」

「運動神経というものを全く持ち合わせない私でも右足・左足と交互に出すことは出来ます」

「右・右」「左・左・左」だったらお手上げですが・・・

私が他の人より優れている資質があるとすればそれは「忍耐です」「黙って何も考えないで、耐えているとゴールなのです」「ファンタスティックである必要もない」「抜群の記憶力も必要ない」「必要なのは耐えることだけ」

こんな、返事をしながら実は私は「自分に惚れ惚れ」していたのだと思う。

タカサンもやるじゃないか。時代の先取りでもあったし・・・。能のない雀(鷹ではない)の爪は丸見えだった。

そんな半分虚勢の強がりの自分にもチョット飽きてきた。疲れてきた。

自分で蒔いた種の呪縛から逃れたいと願い始めていた。(勝手極まる言い分だが・・偽らない自分の心)

何時もの常套手段の自己弁護ですが、若干なりとも興味を覚えられたらお読み下さい。

2018年04月22日

第8回ぎふ清流ハーフマラソン大会 快晴

 最高気温  27℃ 暑かった。タイムは2時間28分と、2017年の2時間19分のタイムより9分遅い。ベストタイムは2014年の1時間58分15秒だが、それに及ばないことは当たり前としても、30分も差があるのはチョット情けない。納得しがたい事実だった。18キロの長良川の橋の下で「金鯱」の武藤さんに会う。そして聞いた声がするなぁと思って探すとノバルティスの前田君が写真を撮っていました。ゲートをくぐる直前では、今年のボストンマラソンの優勝者「川内」が待っていてくれました。「「50年後のボストンマラソン期待しています」と声を掛けると顔を崩して「有り難うございます」「走り続けます」と返事をくれました。完走賞を貰うところでは、「伊岐津志の古田さん(♀ 看護婦さん))にバッタリと会いました。

 

5月26日

第15回富山清流マラソン  快晴

 13年前(平成17年)には自己ベスト3時間56分分をこの大会で記録した。162回目のフルマラソンであった。私に取っては験の良い大会である。そしてアップ・ダウンの少ない高齢者向きでもある。準備をしていると「金鯱」の河合会長、渡辺さん達に会いました。一度も立ち止まることなく、走ることが出来ました。但し、のらりくらりです。タイムは5時間15分です。余裕を持って「ゴール」する。157回挑戦して157回目のフルマラソン完走です。つまり完走率100%です。

 

7月15日

岩木山登山(青森県)快晴

岩木山神社を0600分に出発しました。弘前大学山岳部の現役部員2名(井上・桐原)をガイド・サポートに頼みました。「大沢」の雪渓は4年前より少なかった。「種まき苗代」から上部ではバテました。息が上がってしまい、時間を浪費する。頂上到着は10時ちょっと前です。嶽に下りました。ほぼ折りきったところでバランスを崩して左足首を捻挫する。

この捻挫が今年後半の最大のネックとなった。

 

ウルトラマラソン 一度も挑戦出来ず

去年の「野辺山ウルトラ100キロ」では40キロのバリアーでゼッケンを剥がされるという屈辱的な無様を演じた。今年は忌避しました。高山も遠慮した。描いた計画は、夏の間に炎天下の長距離走で持久力を溜める。そして始めてウルトラ100キロを完走した「京丹後ウルトラ100キロ」から再挑戦をしよう。ついで「越後くびきの」最後は「四万十ウルトラ100キロ」で締めくくろう。「四万十」を何とか完走して自分の名前と完走時間を染め込んだ、「1枚だけの特製ティーシャーツ」を貰うのだ。これでウルトラからは手を引こう。そう決めていた。計画は遠大だった。5月「富山清流マラソン」から帰ってくると早速取りかかった。

人道の丘(標高差 300メートル 往復10キロ)3往復 3トライアル

大舩神社阿弥陀坂から神社拝殿までの御百度参り      100回

「回復の兆し有り」と感じるほどになった。 が、7月の岩木山登山の嶽への下りで左足首を捻挫した。これが「来たるべき凋落の前兆」だった。ランニングをすると痛みが出る。トレーニングを休む。痛みが楽になり再開すると再発をするという繰り返しでした。夏の間も殆ど走れませんでした。歩くことが多くなってしまった。

体力の衰えに気力の衰えまで俺を蝕み、襲い始めた。ウルトラマラソンは3大会とも棄権した。ウルトラは参加費も高額なのだ。厳しい判断だったが諦めた。

 

10月21日

 

手稲山登山

手稲山だから簡単に登れると思った訳では有りません。でも、スイスイと登れるはずだった。平和の丘(標高 200メートル)コースから登る。決してなめていた訳ではありませんが、予想外に厳しかった。トレーニングも不足??かな?ゴロゴロのガレ場に掛かってからガクーとペースが落ちました。丸井についていけない。情けない。息が切れてしまう。脚がダルい。北海道は紅葉の季節、落ち葉が一杯でした。手稲山の頂上(1023メートル)ではダウンする。

 

信濃の友   三番

秋の時雨に濡れる道 落ち葉を踏んで一人ゆく

共に歩まん 峠の道を ともよわすれじ峠の道を

10歳年下の山学部の後輩、去年、冠動脈ステント設置術を受けている。

 

ホップ

2018/11/11    日曜日     快晴   暑いぐらいの1日

 

揖斐川町乙原に架かる橋(8.6KM地点)

第31回 揖斐川マラソン大会

0940分、スタートの号砲が鳴る。が、最後尾にいる我々には聞こえない。集団が動き始めたので、スタートしたのだろう感じた。時計も持っていない。絶好のランニング日和でした。最後尾であることは承知していました。でも、第一関門(8.6km 1時間10分)はギリギリ大丈夫だろうと思っていました。遅くとも歩かなければギリギリセーフでパスする。次の関門(20キロ 2時間40分)で拾って貰うという算段でした。

50台のフトッチョのおじさんと大丈夫だよねと言いながら、眼の前を脱兎の如く駆け抜けていくランナーをやり過ごしていました。「すたこら・すたこら」と関門の前に来たら「バシー」とバリアーが出てきました。邪魔しないでよと思ったのですが、どうも関門閉鎖の合図だったようです。警察の検問で逮捕される犯人の気持ちかなぁ?体力の限界です。よく分かりました。それなりに走るだけでは第一関門は通過出来ない。これまでそんなこと考えたこともなかった。大変な試練でした。

 

自販機でポカリスウェットを購入して一息に飲み干す。結構疲れたよ。

でも、気分はとても爽やか。胸の中のつっかえが、言葉にすることに躊躇を感じていた「ランニングからの卒業」が眼の前に大きく開けて来たからです。

帰ってきてから、人道の丘の往復を走りましたが、時間はめちゃめちゃ掛かりました。

ストップ・ウォッチを持参しなかったのは大きな誤りでした。責任をそれになすりつけてはいけないのですが、油断があった事も確かです。

 帰りはルンルン気分で午後1時には家に帰ってきました。

「ただいまー!」という私の声を聞いて、女房の美尋さんは「あれまぁー」「どうしたの!」私はひたすら照れ隠しに笑いコケていました。

以下は、ランニング仲間で、常に私のタイムよりも-30から-40分早い友人から励ましの手紙を貰った。それに対する私の返事です。

畏友というのか、常にスポーツの医療の人生のライバルと私が勝手に思っている各務原の開業医で、弘前大学山岳部 

の同期生野々村修君(通称N氏)

 でも今回のことは、そんな目線だとか、プライドだとか、通常の価値判断基準を外れています。同情は要りません。その価値もない。

まぁ!! インポになったと言うことです。泌尿器科医だから言いますが、「ED」という言い方は嫌いですね。やっぱ「インポ」でしょう。「早漏・短小・インポ」ですよ。この語感が相手の心にグサーと刺さるから効果的なんだよ。「バカ・間抜け・アホー」などは言葉に力がありません。力量不足ですよ。 手稲山に登った時もPCIを受けた丸井に後れを取るとは思ってもみませんでした。岩木山に登った時も鵬鳴から上部が、まるで動けませんでした。

「時は今・・」です。

昔日の栄光の記憶が占領している私の頭脳は、フルでも、ウルトラでもチョット真剣に練習すればと思っていた。思っている自分が、憐れに思える「インポ」野郎です。

もっと端的に例えれば、巷では、勢力が衰えた男たちの合い言葉「女が変われば女を抱くことは出来る」は、酒席では何時も話題になりますね。私もそう思っていました。今回、今年そうではない男に成り下がりました。

昨日からはどんな女が現れようと「このインポやろう」と罵られるヤツになりました。

罵られる前に大笑いされる奴になりました。

とっても晴れ晴れの気分です。 同情はかけらも要りません。

「ドリス・ディの」「ケ・セラ・セラ」気分です

「そりゃーいいね。インポ野郎のタカサン」ブラボー

とか

「張り子の虎も正体現われたりこのインポやろう」

と見出しに書いて欲しかった。

  今、九州場所、横綱稀勢の里の初日から4連敗のことが話題になっている。白鵬と鶴竜のモンゴル出身の両横綱が休場となった。日本人の久しぶりの横綱である稀勢の里への優勝の期待が高まった。しかも一人横綱だ。いやがうえにも稀勢に優勝が期待された。処が九州場所、初日から4連敗の大誤算・無様さです。大相撲の歴史で84年振りの不名誉な記録だと大騒ぎです。横綱昇進後の翌場所左肩に大怪我をしながらも連続優勝をした。その後、5場所連続休場した。進退をかけて9月、秋場所に臨み10勝5敗で場所を終えた。期待のかかった今場所だったが、 結局九州場所は4連敗で休場しました。

「いつまでもしがみつくな」「横綱の権威に傷がつく」「未練たらしい」「見苦しい」と思っていました。

しかし、稀勢の里の行動はもっと、もっと複雑だろうと思います。

膝が痛い。腰が痛いという障害であれば諦められる。痛みはほぼ完全になくなった。自分の心ではまだまだやれると思っている(多分錯覚・思い違い・自己分析不十分)。頭の中では全開に近い。が、動き出してみるとその衰退ぶりに心が萎えてしまう。色々理由を重ねて取り繕うが頭の中の自分と実際の自分のギャップを埋め切れていない。最後にとんでもない大失態(大事故)をしでかしてスポットライトから、舞台から半強制的退場になる。

長期休場明けの秋場所で10勝し、周囲から完全復活の期待感を懐かせた。初日から4連敗の成績に横綱審議会も異例の激励をすることにした。事実上の最後通牒だ。自ら優勝を目標に掲げた九州場所で4連敗の後途中休場し全包囲網をかけられ、見方が厳しくなった。

「かなり寛大に前向きに見てきたが、いつまで可能なのか?横綱の良識に地位の重みに立って自ら判断する時もある。初場所はそうゆう場所になる。」

次元も全く違い、国民の関心のレベルも全く違いますが、稀勢の里関心中お察し申し上げます。

 

ステップ

11月18日     日曜日      晴れ

  八百津町  人道の丘ジョッキング大会に参加

ランニング大会ではありませんから、タイムを競いません。関門も、時間制限もありません。それでもこれまでの自分の成績が一つの基準です。

2017年の記録

11月19  寒い朝です。2度。瀬古が招待されていました。表彰式の前にトークショーがありました。ボストンマラソンの優勝者です。君原の話をしたかったが、心に暖めておきます。

50分40秒ぐらいです。去年より好タイム。亀喜の伊佐治君と競って勝ちました。

2016年の記録

11/20

何円振りかで「人道の丘」を走りました。51分50秒ぐらいです。人道の丘への最後の坂を歩きましたが、帰りはそれなりのスピードで下った。2012年以来です。

2012年

11月18日    日曜日   曇りのち晴

 57分という「たおやかなタイム」でした。

 蘇水苑の登りで左足のふくらはぎの肉離れを意識した。そのまま、そのままゆっくり、ゆっくり坂祝の後藤先生と話しながら完走です。

聾唖者の石田君にも会いました。最終ランナーは春日井の西脇さん夫婦(79歳と72歳 来年も逢いましょうと約束して分かれました。

成人男子、住所が八百津町内者5名のみ・・・

2011年

11月15日   日曜日   快晴   20℃を越す

 46分でした。宮嶋の林(42分台)さん、もう一人の女性にも遠く及ばず。役場の赤塚誠さんが、弟と一緒に走る。勿論及びません。今井衆議院議員の姿を見かける。

 以上が最近の記録です。

2018年は58分でした。

西脇さん夫妻に土屋組の三叉路で漸く追いつく。言葉がありません。

脚が全く出ない。結構トレーニングしたよ。揖斐川の後の一週間で人道の丘を5往復ぐらいしたのに・・・ジョッキング大会だとしても、チョット、いや大いに情けない。

 

ジャンプ

12月9日  薄曇り  風強し

 

袋井クラウン・メロンマラソン完走記

    5時間43分    徳俵に残る   薄皮1枚残す   

これも近年の記録を拾っておきます。

2014年12月14日   寒い1日でした

5時間10分です。

最後、エコパーに戻ってくるところのマンホールの縁で転倒する。

野々村は 4時間24分です。

 

2013年12月08日  日曜日    晴れ 暖かい

4時間24分(10キロ 61分、20キロ122分 30キロ183分)

スイスイと走れた感じです。快調でした。野々村は  3時間55分です

 

前日8日の夜の心境としては淡い願望は「なんとかして完走したい」が、目標は「20キロは死守」です。

 

最近の事情も

切羽詰まっています。だらだらとは生き延びたくない。・・そう決心しながら走り込みました。

11月24日  荒薙様の往復(20キロ)・・パルムの前で転倒、左膝を強く打撲。脚        が揚がらない。日が沈む前に戻ってくる予定で走り出したのですが秋の日の釣瓶落とし、真っ暗な道路で転びました。

11月25日 13キロぐらい

12月01日 松村歯科の往復

12月02日 潮南バイパス 峰西往復

12月5日  アクトスのルーム・ランナー 時速8キロでは走れない。

       階段を上がると息切れと動悸がする。

 

2018年12月09日(日曜日)  昨日から寒波 風強い。

  0930分、スタートです。エコパから飛び出します。5年ぐらい前からコースが逆になりましたね。最初にトンネルをくぐって南を走ります。静岡理工大学→中華料理屋さん→袋井??中学校→橋を渡り、シンドラーエレベーター→地下道をくぐって北にでます。可睡斎は行きません。ひたすら畑の中を走る。再び地下道ををくぐって畑の中を東に西に走ります。そして東海道線添いを「愛野」の駅に向かって走る。39キロの表示が出てからは結構走れました。エコパに向かって走る。この辺りでは時間切れを意識したが、タイムはグロス5時間49分、ネットで43分でした。鼻水に対してディレグラは効果ありました。腰が痛かった。ロキソニンを飲みたかったが、探せなかった。「おたすけまん」ブドー糖は3回ほど服用した。グリコのキャラメルの謳い文句が「一粒300メートル」ならば、私の推奨するブドー糖は「2粒で2.5キロメートル」の即効性がある。後半の20キロはウルトラ100キロの最後の20キロの仮想で挑戦した。20キロを3時間で、5キロを45分である。

結局薄皮1枚残った感じである。稀勢の里より、一足先に引退声明を出すはずだったが・・・。嬉しいような、肩透かしを食らったような複雑な心境である。

アンニュイである。ハッキリ書けば、ブルーデイですね。心の青あざを意識するレースになってしまいました・

2018年のランニングの始末記を兼ねている。

                                 2018年12月28日  脱稿

 

ランニングを止めたいとか止めるということではありません。運動選手の1人として、ランナーの端くれとして大会に出場してタイムを競う事を継続するのか止めるのかを自問自答したと言うことです。

勿論、最終・最高目標は「わだば八百津の君原になるじゃ」で書いたように74歳で5時間を切ってフルマラソンを完走することである。

しかし、その目標に拘泥して見苦しいマネをしてはなるまいと考える日々である。

 シートンの動物記の中の「 狼王 ロボ」を読んだことがありますか。

森中の絶対的王者で最高の指導者だった。どんな戦いにも勇敢に戦いを挑み、勝ち続けてきた。誰もがロボに従うことに心酔していた。そんな「ロボ」だが、ある時、牙がぽろりとこぼれて落ちる。 そして、彼は自分の時代が終わりに近づいたことを悟る。

そして絶対的権力を誇りながらひっそりと群れから去って行く。

上手く表現出来ないが、その男の美学が素晴らしい。愛読書の一冊である。ジャックロンドンの「荒野の叫び声」も良いですね。自分の心を奮い立たせたい時に読み直します。

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