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東日本大震災から満6年(その3)

東日本大震災からはや5年の歳月

私には退行性変化しか許されていないのだろうね

                                   平成28年3月9日

 

先週の土曜日の雨の朝、私の実家の隅にある沈丁花の花が咲き始めているのを見つけました。駆け寄るとあの甘い、周りを和ませる、奥ゆかしきそして懐かしい香りが漂っていました。

そうです。平成23年3月11日、午後2時46分、東日本大震災の事に思いを馳せる時この花を想い出します。沈丁花の花を見ると、いつも母を思い出します。5年前私の母はまだ生きていました。日毎に進行する痴呆症状に、為す術もなく、特別養護老人ホーム{敬和苑」に入所させました。私が分かったり、分からなかったりでした。気分の良い時、ご機嫌の時は玄関先のロビーで、二人で童謡を歌いました。絵本も読みました。 不思議ですよね。文字が読める瞬間があったのですよ。喜び勇んで質問すると何も分からない「美喜ちゃん」でした。漢字が得意でした。ひらがなはあやふやなのですが、「敬和園」の漢字が読めるのです。童謡の誘導してやると1小節・2小節ぐらい歌える時がありました。

息子(というより ㊤という家の跡取り長男息子)を溺愛して裏切られた母(??)と受けた恩の大きさにまだ気がつかない愚かな息子(日常の生活の表現型は、当然、忌み嫌っていました。「面倒くさい」「手の掛かるくそババア」でした。)のわかり合えた、お互いに赦しあえた年月でした。

こんな感傷的は感想を述べることが出来るのは、時が解決してくれたからです。地理的は解決は出来ないのですが、歴史的な解決は楽しい部分(自分に都合のいい記憶)だけを浮かび上がらせますからね。

話を戻しましょう。

大震災の年は結構寒い3月でした。当日は金曜日の午後でした。大きな振動が八百津でもありました。でも、その時の私には、それ以上に心を占めていることが有り心にとめる余裕がありませんでした。夕方になり、時々刻々と報じられてくるニュースに怖れおののきました。(平成7年の阪神淡路大震災の折にはニュースの届くのが遅かった。救急車の出動要請がありましたとか、電話が通じ辛くなっています等というレポートをお昼に流していました。直下型の大震災で建物の倒壊、交通網の寸断、地割れ、断層、そして大火災などの出来事はその日の夕方から伝えられ始めた)駐車場の車が全てさらわれ、逃げゆく人を波が、津波が呑み込んで曳いていきました。身震いがしました。あの映像は、あの地獄絵図は本当の姿を描写しているのか・・・この世の有様とも思えぬ有様、阿鼻叫喚地獄とはとはかくの如しならんやという戦慄に震えが止まりません。言葉になりません。固唾を呑んで見つめました。

 あの阪神淡路大震災から16年しか経っていないよ。・・・恐ろしい一夜でした。

次の日、実家に行き父の位牌に向かって灯明をつけ、線香をつけ般若心経を読みました。毎朝の私の勤めです。でもその日は、何が起こったのかを真剣に尋ねました。

答えはありませんでした。

甘沈丁花の花が咲いたのは20日過ぎだったと思います。そして松任谷由実が「春よ来い」を震災の応援歌として歌い出す前だったと記憶しています。彼女と同じ思いだったことに自分ながら不思議でした。

 あの時から5年が経ちました。

心は、劣化するばかりです。嘆いても仕方有りませんね。

己の人となりがそうなのですね。

 

淡き光立つ にわか雨

いとし面影の沈丁花

あふるる涙の蕾から

一つ・一つ薫り始める

それはそれは空を越えて

やがて やがて 迎えに来る

春よ 遠き春よ

眼瞼閉じればそこに

愛をくれし君の

なつかしき声がする

 

君に預けしわが心の   今でも返事を待っています

どれほど月日が離れても  ずっとずっと待っています

それはそれは時を越えて

いつかいつか届けに来る

春よ まだ見ぬ春

迷い立ち止まればそこに

夢をくれし君の眼差しが肩を抱く

 

夢よ  浅き夢よ  私はここにいます

君を想いながら  一人歩いています

流るる雨の如く  流るる花のごとく

 

 

先週の土曜日にも福山雅治が「少年」を「桜坂」を、ドリ・カムが「何度でも・・」を

そして松任谷由実が「春よ来い」を歌っていました。桑田佳祐も、女性ジャズシンガーの今井美樹さんも{PIECE OF MY WISH」を唱いあげました。・・そして、「花は咲く」を全員で唱いました。全国の視聴者(私を含む)も一緒に唱いあげました。ボロボロと涙をこぼしながら色々な思いがこみ上げてきました。

その姿を、歌を耳にしながらじーんとくるのですが、心には、私の心には、もうそれをそれ以上の侵入を阻止する防御(壁)柵があるのを意識します。

あれから5年が経つのですね。この5年の歳月の出来事には、ため息にも似た感情もあり、本当の支援は、手を携えた道程はこれからだという感慨はありますが、被災者のために出来る限りのことをやらなくてはという強い気持ちはなくなり始めています。

なかなか上手く言葉に出来ませんが、あの当時、誰もが「自分に出来ることは何か」を必死に考え、行動に移していました。こんな事が起きていいのか!我々の生きているこの時代に想像を絶する大地震が起き、東北地方は、いや日本がほぼ壊滅的な打撃を受けつつある。嘆いても仕方がない。あるがままを受け入れよう。「受容」することから始めよう。そして、立ち上がる、甦る人々を援助しよう。そう決めた。 日々刻々と事態が変化するなか、お見舞いと哀悼の気持ちを胸に、僕も「いま自分に出来ること」をしていきたいと思い行動した。

人の力を信じ人の心を信じました。

そして、日本の甦りを、奇跡的な復興を世界中が見つめていました。

意地ではありませんが、耐えて、辛抱強く耐えて、地の底からの勇気を出しましょう。

そして、一番大切なことはこの人類が経験したことのない大災害を忘れないことである。いつまでも心に刻みつけ、思い続けることだと決めた。

そうすることによって世界中が力になろうとするだろう。

 

えらそうなことを書きました。

しかし、5年経ったいま、結局は偽者ですね。

傀儡というより、偽善者!!似非善人ですね。

思い知らされても何も変わらない私!!

 

そんな私が出来ることは忘れないことです。

あの東日本大震災を忘れないことです。

 

                                  平成30年 8月5日 加筆して脱稿

                        佐藤孝充

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