佐藤クリニックロゴマーク

八百津だんじり祭(その3 歴史探訪)

八百津祭りの歴史探訪

                                             平成14年2月(初版  安藤衛)

                            平成30年7月(加筆・訂正・編集 佐藤孝充) 

1・八百津祭&大船神社

  大船大権現

 権現山の中腹辺りに黒瀬の渡船に使う木を採らんとすると、白鳥飛び立ち、重くて動かない。不思議にも山頂に向かって曳くと容易に動く。人々は神の所為であろうと、その木をそのままし。後に誰が言うとも無く神の名を、大船大権現・後の大船神社と申すに至る。

 1375年(天授元年)6月現在の位置に、白山大権現を本郷産土神(ほんごううぶすなのかみ)として奉る。応永年間(1394~1427)村人治郎卿という、強力で徳の高い行者が、権現山より大船権現を迎え、白山権現と併せ奉り、大船大権現を村の氏神とした。

1・奉り期日

徳川時代より明治14年までは、旧暦8月14日・15日の両日であった。稲葉家の支配 後錦織(寛文5年以後)に地方役所が出来てから、支配下の村の遊事が決まる

 正月3日間・7日

 2月初午

 3月3日

 6月朔日(ついたち)16日

 7月14日・15 日・16

 8月朔(ついたち)14・15日の祭礼

 11月 初寅の山の子

 1年間17日遊日の中に 8月14日・15日祭礼と記してある。

 祭り事に細目村庄屋(各務甚兵衛)錦織地方御役所・坂上御番所へ文書提出していた。

 14日・15日の祭りの外に

             黒瀬熊野権現祭礼・9月9日

             北山祭礼・8月27日

             杣沢祭礼・9月19日   獅子舞

             須賀八幡宮祭礼・9月6日

             芦渡川神祭・8月6日

 芦渡川神祭は、南宮神社~錦織塩戸川原に綱を張り、提燈した。

 徳川から明治時代と時は変わり、明治に入り西南戦争(明治10年)、日清戦争(明治27年) があり、明治14年9月に大船神社祭事の変更が臨時村会において決定した。その後幾度も 祭典日の変更があり明治32年から春祭りになった。 

 これらを機に八百津随円・春祭りとなる。黒瀬は下記に明記

        13日・川神神社祭

        14日・熊野神社祭

        15日・大船神社祭となる

                                     1 けんか祭

八百津祭りは絢爛豪華な装飾を施した勇壮な「だんじり祭り」であるが、かっては別名「けんか祭り」ともいわれ、だんじりを故意にぶけあい、川人足の、とび職の心意気を誇示する乱暴な祭りの一面もあった。この情景を見物する人達で賑わった。しかし、だんじりの損傷も甚だしく、近年は、けんか腰の華々しいお祭りではなく、川湊として大変な賑わいを誇った時代を偲ばせる勇壮な祭に様変わりした。

 

1. 女人禁制

女性が縄を跨ぐと穢れる、切れるという女人禁制、男だけの世界の考えは根強くあった。私が子供の頃(昭和30年代)は、女性は綱を触ることも赦されなかった。小学校時代は13日の午後は男子のみお祭り参加という名目で早引けが許された。今では考えられない事であるが、当時はごく普通の感覚として男のお祭りだった。昭和45年から女性がだんじりに触り、綱を握って牽くことが許され始めた。今では、女性の参加がなくてはだんじりは動かない。女性の参加あっての八百津だんじり祭と化している。時代の流れとして変化している。当然のことである。それでも、お囃子衆には女性の参加は認めていない。少なくとも本郷組はそうである。

16人衆は体力的に女性には不可能な仕事である。禁制ではなく不可能である。

1 だんじりの組み立て

以前は、5日~6日前に(きまがらみ)といって倉から取りだし組みたてた。現在は三郷とも本楽の2週間前の日曜日に「やまがらみ」を行っている。組みたてただんじりを「フジ蔓」で縛り、締めて固定する。この固定に使うフジツルは三郷で違っている。本後組は立ちフジを使い、黒瀬と芦度組は寝フジを使う。立ちフジは外見が綺麗で見栄えがするが巻が強くフジも太いため、加工するのが大変である。完成した「だんじり」は、「だんじり」といわないで、試楽・本楽で楽奏されるまでは、「やま」と言った。だんじりの解体は以前翌日(やまおろし)に行ったが、現在は、当日に倉庫にそのまましまっている。本郷・芦渡は平成4年に山車収納庫を境内の一角につくり、収めることとした。黒瀬組も平成10年に収納庫が完成し納めるようにした。「やまおろし(こわし)は無くなったが、黒瀬は5年に一度、解体して、整備する事としている。他のだんじりも適宜解体して修理をしている。

1 木曽川と大船神社

 錦織湊

錦織川原に綱場を造り木曽川上流から流した木曽の檜の官材の大木を、ここで筏に組んだ。この時にはフジツルが汎用された。筏は檜も運んだが、人も物資も運んだ。筏は遠くは 四日市、伊勢まで運行した。筏人足の人材(賃金)は、当時としては、高額だった。兼山町・現在(兼山ダムの下流)・可児市(広陵閣の下流)等の危険箇所は多くあった。 だんじりを縛り固定するのにフジツルを使うのは川筏を組んだ時の風習の名残であろう。しかし弾力性にも優れ、乾燥することによりしまりも良くなり、実に合目的的なフジツルである。あの巨大なだんじりを縄で固定することは不可能であり、釘で固定すればクッション部分がなく直ぐに木材が折れてしまうだろう。

黒瀬湊

黒瀬湊は飛騨地方の「蚕」で栄えた。益田街道は下呂から飛騨金山までの中山七里、そして白川町あたりから飛水峡に掛けて急峻となり、交通の難所だった。迂回路として現在の白川町より福地、久田見経由、或いは七宗町から上吉田、北山経由で八百津に抜ける街道があった。飛騨と尾張を結ぶお蚕の道である。黒瀬湊には、木船が全盛時、百数隻余集まり現在の八百津橋から栄町まで並んでいた、船の型は船首が細く激流に対応出来るよう造られていた。船船頭は、筏船頭と違い賃金は、少なかった。木曽川が荒れると船を下流より引き上げる仕事が出来ない、せっかく給金いただいても下流の犬山あたりで川が落ち着くまで滞在しなければならない、細引きという「麻紐」で川原を歩いて八百津湊まで引き上げてくるのが当時の人々には大変だった。その点、筏船頭は、歩いて錦織湊に戻ってくることが出来た。天候に左右されることなく、仕事に有り付くことが可能であった。但し危険だった。  

  黒瀬川祭り  

渡辺氏が、津島神社を迎え私財(寄付)で巻きわら船二艘(現在は火災で一艘)を私財で寄付され、尾張より花火師を招き大正の初めに開催した。今も蘇水郷川まつりが8月第一日曜日に行なわれる。

  川湊の終焉

 大正13年に木曽川水系に初めての大井ダムが完成し、錦織湊・黒瀬湊の幕が降りた。  黒瀬湊の船頭達は、仕事求めて静岡県天竜川に出向き現在も子孫4代目になる方が天竜に棲んでおられる。「川に生まれ川で暮れた」港町も終焉を迎えた。

昭和30年代まで黒瀬組の車方は、下町(港町・旭町)の男衆と決まっていた、船頭が一人前になるには祭りでの16人衆の働きが必須であった。車方で後梃子・前梃子・後押木・前押木の順で前手木が出来れば一人前と評価され、日当の目安とされた。本郷組ではとび職の賃金の格付けとされていた。八百津橋手前左に川の安全を見守る川上神社がある。行者様の顔(岩顔)が祀ってある。

 

1 大山明神(806年)平城天皇御代大同元年

大船大権現 天慶年間(938~946年)・天授元年(1375年)6月白山大権現を産土神(うぶすな神)として奉る。応永年間(1394年~1427年)村人の治郎卿と言う剛者が権現山より大船大権現遷座して白山大権現併せ纏り、大船大権現を村中の総氏神にした。大船神社(1871)明治4年改め現在に至る。

 

1・ 本郷だんじり

延宝4年1676年)始めて造られた。明治14年作り換えられた。古田庄吉という大工の棟梁原図を作るため江州長浜へ「だんじり」を検分したといわれる。彫刻は尾張(名古屋)の飴屋町経堂筋の彫刻師、長兵衛が彫刻しあまりにも出来がよいので上塗りや彩色はしないようにと望んだので、木地のまま現在に至っている。明治14年に造られただんじり倉には、明治14年前の塗り物が残っていた。

1・ 芦渡だんじり

1676年(延宝4年)作られた。伊岐津志中野の白髭神社舞台屋根裏に「芦渡組 山道具不残(のこらず)出来 大工棟梁三代目伊藤新兵衛安政2年(1773年)3月5日」の墨書銘のある1間四方の「ひがくし」の屋根が有る。これは、「だんじり」の「あとやま」の上に乗る「ひがくし」で、その中には女神の人形が飾ってあった。だんじりの材料は、藩の所有物であり、公に盗む事になり錦織湊から芦渡浦へ夜中に提灯を燈し陸揚げしたとある。錦織陣屋の許可をもらい善恵寺下寺寿正院の部屋を借り大工、ぬし屋を尾張名古屋から招き共に寿正院に寝泊まり、彫刻など塗り終え金箔を貼り完成したとある。1855年安政2年乙卯(きのとう)8月15日に新造した。芦渡の「だんじり」は、延宝4年にはじめて作られ、97年後 安永2年に作りなおされ、82年後の安政2年にいまの「だんじり」になった、現在のだんじりが3台目である。

1・ 黒瀬だんじり

1676年(延宝4年)作られた。幼い頃より黒瀬の「だんじり」は虫食いといわれた。全面的には大きな修繕は無く今に至っている。近年は保存会があり「だんじり」の傷んだ箇所を完全な状態に保っている。元禄14年に舳先(へさき)の天秤(てんびん)は、取り替えられている 。胴幕類は、舟問屋加賀屋二代目古田平七郎の寄進だと言われている。

 1・大梁(おおはざま) 

大梁(おおはざま)現在須賀・大船神社の元祖は大梁にあり「大船大権現由来記」によると荒川の下に御輿屋敷があって、獅子・神馬(しんめ)御輿を列ねて、大船大権現山(権現山)へ旧8月15日(9月20日)昇ったとある。奉曲は、「行き」「帰り」「神来舞」の3曲で神の遷座地(大梁地内の親当本)で神霊を御輿・ 神馬に移し、大船大権現山に登るまで「行き」を奏楽し、神前神事では神馬回し獅子回しは「神来舞」、退座するときに「帰り」を奏楽した。応永年間(1394~1427)、村人治郎卿が大船権現山から現在の大船神社へ遷座(せんざ)し、その後は、荒川を越して大船神社へ行きことになった。いつの頃から不明だが黒瀬組が、お迎えに上がることになった,。須賀の公民館から八百津役場前まで、車方数人と車方世話人が行列の先頭を先導する一説によると黒瀬組の御神体が須賀のお寺に預けてあると言う。 神馬は毎年白川・切井で馬主と共に借りて来ている。

1 だんじりの奏楽・お囃子

大梁組か細目組(本郷)母体である。黒瀬組は、「出発(では)」「津島下がり」は別の師匠から「道行き」「神来舞」「引きかえし」 は、編曲したものを、芦渡組は、別の師匠から教わったものと考えられる。

1・ 芦度山の日の丸

芦渡山の日の丸について・明治3年1月27日大政官布告によって日の丸を国旗と制定し、同5年11月3日から一般家庭でも掲げるようになり、だんじりでは、明治六年頃から芦渡だんじりで掲げるようになった。

1 だんじりの構造

だんじりの構造は、「だんじり」本郷(細目)・芦渡・黒瀬・3輌合わせると大きな船の形になる。船首は芦渡で軍船を形どり、胴中は本郷で筏を形どり、船尾の黒瀬は商船を形どったと言われている。構造およそ同じで、車輪の直径は、90cm余り幅24cm余り4輪で、芯棒は約30cm で長さ3m30センチの上に、縦2m97cm・横2m30センチ・高さ1m98cmの櫓を組み、両側に9メートルの押木をつける、押木は「だんじり」の舵をとるためにある。その上に本郷は長方形、芦渡、黒瀬は舟底の形をした床をつくり、前後二つに分けて前を前山(舞台)後を後山(楽屋)と言う。黒瀬と芦渡は前山の先に「みのさき」をつける。船の舳先に当たる部分である。この前山に前3m275ミリ・中3m375ミリ・後3m070ミリの六本の竹をたてて紅白の筒布で飾る(これは黒瀬の採寸である)。この上に屋根をのせ両端に金鯱をつける。 これを「ひがくし」と称する。前山で打囃子をする。芦渡と黒瀬は前山の両側に、長刀・槍 ・黒天笠袋(台笠立花)を立て、両脇に欄干がつく。

 前山と後山の境界には、幅約2mの猩々緋(しょうじょうひ)の胴幕を掛ける。その上には木鼻獅子等彫り物をつけ、その上に後山の破風(はふ)が乗り、頭部に鬼板(しかみ)を取り付け る。後山は両側を格子の様に組んで、下かけと胴幕をつける。胴幕は猩々緋に金糸で刺繍がしてある。本郷は「高砂の尉(じょう)姥」、芦渡は「波と千鳥」、黒瀬は「亀と波」を刺繍で描いている。胴幕の上には幅66cmの水引を張る。後山は子供の乗るところであり楽屋でもある。後山に屋根幕を張り、屋根の上に吹貫き、幟(のぼり)、日月をあしらった金星を立てる。本郷は満月と丸星、芦渡は太陽と線光、黒瀬は三日月と帚星(ほうきほし)をあしらう。その他に本郷は大きな松の枝・黒瀬は立て傘・大鳥毛・台笠を立てる(平成14年度大鳥毛の修復したが、白い大鳥の羽がなく収集に苦労した)背面は本郷組「だんじり」は脇障子左右二間(枚)には登龍・下り龍を、法立(のりたて)二間には、葡萄(ぶどう)に栗鼠(りす)、腰の彫り五間には獅子に牡丹、脇障子の上二間には雲に麒麟、・中は御簾(みすだれ)をかける。黒瀬・芦渡には少し違いがある。

 その下に黒瀬・芦渡は「かじ」をつける

  だんじりのサイズ格組み長さ幅押木高さ細目(本郷)6メートル06センチ3メートル24センチ8メートル92センチ5メートル90センチ 芦 渡7メートル87センチ3メートル21センチ8メートル96センチ5メートル80センチ 黒 瀬7メートル90センチ3メートル13センチ8メートル20センチ5メートル75センチ

  芦渡・「みよさき」1メートル・黒瀬・「みよさき」1メートル30センチ

 重量約3.3トン空の状態、人数によりかわる。

 

 

 

 

 

1・ 昔のだんじり

昔のだんじりは現在のと違い後山の上に1間4方の「ひがくし」があった、その中には数 々の人形が飾り祀られていた。本郷が「高砂の尉と姥」、黒瀬は「男の神」、芦渡は「女の神」であったと言われている。      

 明治14年以前の「だんじり」は、黒漆塗(くろうるしぬり)金箔押しを施し綺麗なものであった。前山には六本の竹に支えられた大きな「ひがくし」があがる。この破風(はぶ 屋根の妻側の造形のことである。切妻造や入母屋造の屋根の妻側には必然的にあり、妻壁や破風板(はふいた)など妻飾りを含む。)の上には、大きな金の鯱を乗せ、後山の上には1間四角の「ひがくし」を上げこの破風の上には 小型金の鯱を付け、その中には各組みの人形が祀(まつる)られていた。         この「ひがくし」 は上げ下げが出来「だんじり」を曳く時には下げて曳いた。

「だんじり」を曳く綱の太さは綱元で直径9cm・長さ30メートルの大縄で、新藁を用いた。各当本組は、早朝より縄網造りで一日を費やした。時代の流れで平成8年には餅米縄でなく麻縄に変わった。

1・ 大船神社・本祭り字荒川の道から始まる。現在細目の味屋降り口(古彦)辺り、    江戸時代高札(掲示板)があり、細目村の中心地だった。本祭りの当日大梁組(須賀組)を 先頭に,役者・獅子・神馬・稚児・早乙女・御輿行列の左右と後に、羽織袴の股立ち     (ももたち)をとって、青竹の杖(しょう)をもった警護に守られながら、古東山道を西か ら荒川越して「やま」に合流する。                          江戸時代には、多数の人々が集まるのを禁じていた、それには、筵旗(むしろはた)を立て ると、一揆にかわる危険があるため、「だんじり祭り」の場合は「錦織地方役所」へ役人の見 分願(けんぶんねがい)を出した。                          役人は本祭り当日「細目村大庄屋各務勧兵衛宅」の座敷でもてなしを受けた後「だんじり祭 り」の見分をした。見分が済むと祭りの始まり,これまでは、「やま」で「出発」の奏楽が始ま ると、大梁組の神馬・御輿神の降臨(こうりん)があり、ここで、はじめて「やま」が   「だんじり」になる。  

 大梁組・細目組・黒瀬組・芦渡組の順に大船神社に上がり神前の行事になる。神前では、  獅子二頭に守られた神馬・御輿・後に続く「だんじり」3輌から、神霊が神殿に遷座    (せんざ)され、神殿の神事が始まる。大梁の役者は、大梁の警護に守られ神殿を3回廻っ て堂庭(どうにわ)で早乙女と合流して大山明神の田之神・神事をとりしきり、3輌の   「だんじり」で同時に「神来舞」を奉楽した。

1・ 笹踊りの神事黒瀬のガラガラ・細目・若連の取締二名で「山渡」が行われ、笹踊の神事 に入る。その間は「津島下り」を奉楽する。笹踊りは、直面(素顔)の稚児舞である。   元来、榊・笹・葛(ツズラ)などの植物には、神霊が宿る信じられ、それをてにして舞うと  神霊が招き寄せやれて舞人に乗り移るとされていた。笹踊りもそのひとつで、大梁組は拝殿 で榊を持ち、船首の芦渡組は、幣(へい)を持ち、胴中の本郷(細目組)は、笹を持ち、船 尾の黒瀬組は、杓(ひさこ)を持って、その場を清め神霊を迎える。

 笹踊りの稚児は、その組み内の不浄(ふがれ)のない男子(五歳~七歳)十名ほどに新乗り(しんのり)行事をさせた後に舞う。舞は「下り」1回奉楽し、笛の連吹(れんすい)に太鼓 の連打が始まり、稚児が両手に組々の持ち物を持ち、右臆病口から舞台へ出て左臆病口へ入 る。                                                                                  二回廻って,3回目に舞台中央の真床覆衾(まことおふすま)で神と共に寝て左臆病口へ引き 上げる。                                      舞をした稚児らには、無病息災延命長寿の御加護があるといわれている。

黒瀬組のガラガラは、梅若・稽古の合間に先輩の指導で10対作成する・前々年度使用し  たひがくしの竹を使用して6角~7角に鉈で下ろす。長さ20cm幅6cmの筒を作る。  錦絵の色紙を用い糊で張り合わせる。筒の中には堅い豆・小豆等使用(1015)とする。

 以前は、「だんじり」のガラガラを行うに御祝儀だして乗っていたのに、子供の人数少なく、 今では女の子も大切な一員になった。                         大船神社で舞ったガラガラは、その子らに差し上げる・持ちかえり各家の祭壇に奉納すると、 その家庭にはいつまでも幸せな日々が過ごせるという・黒瀬は、笹踊りと違い舞台中央・舞 床覆衾(まことおふすま)で重寝する事はない

1・ 子供歌舞伎・笹踊り等が終わると、子供歌舞伎を行った。             

 延宝14年(1676年)「だんじり」出来たときから行われていた。各、組みは次々と題材 披露し、夜遅くまで提灯を点して行った。しかし、明治8年(1875年)12月27日、岐阜県令で、踊り・獅子舞等の伝習が禁止となったため、子供歌舞伎芝居の終わりとなった。

山車は、そのままにしておき、翌日は「山おろし」で曳き帰り、「山こわし」を行い倉に保管した。

1八百津祭り神紋

 大梁組(須賀)  大山明神=「橘」 

 細目組(本郷)   総社大明神=「橘」

                    本郷組=「本」 

 芦渡組       神明神社=「五七の桐」 

 黒瀬組      熊野神社=「梅鉢」

                                                                      参考=佐藤弥太郎氏

                                   参考=古田平一郎氏

                                   監修=安藤衛

 

註  

この記述は、我が友安藤衛君の労作である「八百津だんじり祭」を我流で、自分の知識で勝手に加筆、訂正したものである。校正はしてありません。本文の記述の全ての責任は、私、タカサンにあります。

                           平成 30年07月12日 脱稿

                           明日は13日、金曜日なので忌避しました

電話・FAX

TEL.0574-43-1200
FAX.0574-43-9050