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朱鷺物語り(朱鷺に逢いに行く)

「荒海や佐渡に横たふ天の川」

  松尾尾芭蕉

                            「砂山」

海は荒海 向こうは佐渡よ
すずめなけなけ もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

                                      北原白秋

 

佐渡島を訪れたのはファーストだが、この連休中に訪れたのはサードです

                 起

大げさな言い方をすれば、生きている間に大空を飛ぶ朱鷺をこの目でみたい。眺めたいと40年ぐらい前から思い続けてきた。思い始めたのは何時頃のことであろう。女房(美尋さん)と結婚したのが1983年である。その翌年、電子顕微鏡学会が、新潟で開催された。研究者の1人として参加した。その時こんな予定を立てた。時間の余裕があれば、佐渡に渡って朱鷺を観てみたいと・・。朝一番の連絡船で佐渡に渡り、一日中バスに乗り、歩き回って朱鷺を探そう。運がよければ、その姿を目にすることが出来るかもしれない。しかし、そんなに上手く事は運ばなかった。時間の都合が付かなかった。彼等との邂逅はお預けとなった。30歳台の後半のことである。今回はままならなかったが、チャンスはいくらでもある。佐渡に行く機会はあるだろう。

が、最後の朱鷺の番い「ミドリ」と「キン」が新しい「命」をはぐくみ孵化することなく死んでしまうと日本から本当の意味の日本の朱鷺はいなくなってしまう。絶滅という事態である。中国から譲り受けて繁殖させてもそれはもう、Japonia japon ではない。シーボルトが江戸時代に鎖国のご禁制を破って、剥製の朱鷺を持ちだして、西洋社会に紹介したのは、何世代も日本列島で繁殖を繰り返してきた朱鷺である。その朱鷺は近い将来絶滅する。悲しくて辛いことである。人間の傲慢極まる暴力が、この地球上から一つの種を滅ぼしてしまう。その事実を脳裏に刻み込んでおこう。子孫に語り継ごう。私達の団塊世代の勤めだと思っていた。

 

その頃の朱鷺にまつわることを書き留めるとこんなところだろうか。

1981年   

佐渡で生息する野生の全ての朱鷺(5羽)を捕獲しペアリングをするが失敗に終わる。

5月、絶滅したと思われていた中国で7話のトキが発見。

1985年

この頃を中心に中国のトキとの間にペアリングを試みるも全て失敗に終わる。

1994年

「トキの森公園」がオープンされ、一般公開が始まる。

1995年(平成7年)

ミドリ(♂)死亡。残ったのは「キン」一匹となり、日本の朱鷺は全滅することが確定。

1999年(平成11年)

中国から贈呈されたペアから始めて人工繁殖に成功する。

2003年   

最後の朱鷺「キン」が死亡。  33歳。

 

そうか、日本の朱鷺は全滅してしまったのだ。絶滅してしまう前にその姿を見たいと思い続けてきたが、その夢が叶う前に死んでしまった。残ったのは中国から譲り受けた朱鷺だ。

そんなものに興味はない。

佐渡にも行かない。

決めた。

頑なで、意固地で、天邪鬼のタカさんが前面に出てしまった。今から思うとなんとバカバカしい、愚かな考えと「おつむ」を拳骨で叩きたくなる愚見ですが、その時はそう決めた。

正しくない比喩だが、「私の求愛を袖にして、他の男の元に去った女性を無視し、或いは悪し様に非難する下劣な態度」だね。

 

すっかり醒めていた。醒めた振りをしていた朱鷺への思いだったが、ある記事から思い直し始めた。

日本と中国のトキは違う?

日本のトキは2003年、「キン」が死んで絶滅。実際には「ミドリ」が死んだ1995年(平成7年)に絶滅は決定していた。現在佐渡にいるのは中国から贈られたトキとその子孫に当たります。日本産と中国産のトキのDNAを調べた兵庫医科大学・山本義弘教授(分子遺伝学)によりますと、遺伝子の違いは0・065%。これは「個体差レベル」だそうです。日本人一人一人の遺伝子が少しずつ違うのと同じ程度です。また彼等の調査で、昭和初期の佐渡に中国トキと同一の遺伝子を持つトキがいたことも分かりました。

考えてみれば、朱鷺に国境はない。海峡による生存区域の差別もない。何せ彼等はこの地球上全てを自由に飛べる鳥類である。よく発達して胸筋には疲労の蓄積しないイミダペプチドを沢山持っている。中国から日本海を、東シナ海を渡って日本列島に渡ってくることなど朝飯前のはず、朝ご飯という習慣があるかどうかは知らないが・・・。

私は反省した。自分の了見の狭さを恥じた。やはり眼の黒いうちに美しいその姿をタカさんの目に焼き付けておこう。

 

朱鷺との邂逅

  

2018年5月5日    土曜日     曇り午後晴  暖かい・風少し

佐渡島の朝を国際佐渡観光ホテル八幡館で迎える。このホテルは防風林の松林の中にあり昭和天皇がご宿泊になった由緒あるホテルである。私の大好きな(表現としては不敬罪にあたりますが、この言葉が私の気持ちに一番近い)昭和天皇ご夫妻が宿泊されたホテルと聞けば大満足だ。

昭和天皇ご夫婦のお写真と肖像画が掲げてありました。

昭和天皇御製

ほととぎす  ゆうべききつつ

この島に   いにしえ

おもえば   胸せまりくる

朝、6時過ぎから海岸線を北上してジョッキング。日本海の潮風を受け潮騒を聞きながらのジョッキングは爽快です。朝ご飯に出された揚げたてのアジのカツ。美味しい!!佐渡の海産物は旨い。

朝8時半、観光バスツアー出発。10分ほどで歴史伝承館に到着。

バスを降りてガイドさんから佐渡の歴史、特に島流しについて説明を受け始める。その時である。クラブ・ツーリズムの笹本さんが「皆さん、空を観て下さい。朱鷺です。朱鷺が舞っています。」と呼びかける。一瞬のどよめきと共に30数名のツアー参加者が、一緒に空を見上げる。見上げると大きく羽を広げた「大きな鳥」が飛んでいる。ゆっくり旋回しながら本当に優雅な姿を見せてくれる。

「あれが、朱鷺か!」

「朱鷺だ!」

拡げた羽の色は「朱鷺色」です。朱鷺だから朱鷺色に決まっているのだが、それ以外に表現しようがない。心なしか周りの空も染まっている。

「観た!」

「観てよ。あれが、朱鷺よ」

「素敵ねぇ」

各々が指を指し、声を出しながら眺めている。スマフォで写真を撮ろうとする人もいた。私達(美尋とタカさん)はただ、ただ、呆然と懐かしいものを観る面持ちで眺めていた。逢いたい、どうしても逢いたい想い人に、突然、忽然と出会ってしまった。しかも、予想外に早い時期の遭遇です。勿論、淡い期待は抱いていた。生息地佐渡にいるのだからひょっとしたら空を飛ぶ姿を見ることが出来るかもしれない。2泊3日の滞在だからチャンスはある。そうは思っていた。反面、朱鷺センターで飼育されている朱鷺を見ることが出来れば満足とも考え、心の負担を軽くしていた。それが、2日目の朝、「佐渡島へようこそ」というメッセージを私達にくれました。欣喜雀躍という四字熟語そのものを体験しました。来てよかった。40年来の思いが叶いました。

 やがて、朱鷺は東側の森から西に向かって飛び去った。朱鷺が私達のその姿を見せてくれたのはほんの1.2分だった。でも本当に豊饒の一時でした。その昔、この日本の空を朱鷺が群れをなして飛んでいたのだ。ごく普通の風景だった。思いを馳せながら、その雄大なスケールに魅入っていた。

 

註  

佐渡島に島流しにあった罪人は沢山いたと思われますが、この歴史伝承館では以下の3人を紹介していました。承久の乱で敗れた順徳上皇は22年間佐渡で生活し、飲食を絶って自ら死を選び、和歌を好んだ風雅の人だった。鎌倉幕府を批判した日蓮は「立正安国論」で幕府と他宗を批判し、佐渡でも他宗の僧たちと丁々発止の議論を戦わせました。能を大成した世阿弥も流されてきました。世阿弥の能は佐渡と深いつながりを持ち、今も多くの能舞台が現存しています。島流しになった3人の精巧なロボット演技が真にしまっていて面白かった。

 

註  

私の好きな明治天皇の御製歌

 さし昇る朝日の如くさわやかに

     あらまほしきは心なりけり

 

あらし吹く世にも動くな人ごころ

        いはほにねざす松のごとくに

 

 

お目当てのトキの森センター

 

 

 

トキの森センターは島の東側、両津湾寄り、汽水湖・加茂湖の南側です。

 トキふれあいプラザには大きな飼育ゲージがあり、トキがゆったりとのびのびと飛翔しています。とパンフレットに書いてありますが、それは人間の眼だ。私達の判断ですよ。

大空を飛ぶのを生業とする遺伝子を持つ彼等にとって飼育ゲージは余りに小部屋、ひょっとすると牢屋みたいなものだろう。ツルやサシバのような渡り鳥ほどの長旅はしないだろうが、本州との往復はお手の物だろう。「ゆったりのびのび」ではなくて「飛び立ったら制動」かな。朝、大空を優雅に飛び舞う「朱鷺」を堪能した私はそんなことも感じていた。

孵化したヒナの喉の奥に長い嘴を突っ込んで餌を入れてやる姿や、水場でドジョウやタニシを探し漁する生き生きとした様は素晴らしかった。よくぞ、日本で育ってくれたと朱鷺に感謝する。

 素晴らしい佐渡旅行だった。

その他にも、あちらこちらと回りましたよ。

砂金採り

ゴールドラッシュとは真にこのことなり

佐渡金銀山遺跡

佐渡金銀山400年の歴史を伝える発掘遺跡です。江戸金山の宗太夫坑コースでは、当時の採掘作業を忠実に再現 現在世界文化遺産に登録申請中 

道遊の割戸

壮大な露天掘り採掘跡を残す佐渡金山のシンボル

尖閣湾巡り

グラス・ボード遊覧は強風のため中止。東尋坊と成り立ちは同じですね。

宿根木の町並み

吉永小百合JR東日本のCM写真がありました。「大人になったらしたいこと」

兎に角、一風変わった建物だった。全て木造の家だ。当然屋根も木葺きだった。そしてめくれ上がらないように石が載せてある。載せてあるだけでは、転がり落ちてくるので、石に5寸釘の入る深い穴が開けてある。そして木屋根の下から釘が出ている。その釘を石の釘穴を差し込むのだ。壁も全て木壁です。木壁の場合、横木を積み上げる。そして上の木を少し重ねて雨の入ってくるのを防ぐのが一般的だと思うが、壁木は縦に並べられている。瓦屋根はお寺さんだけだった。変わっている。

おけさ踊り

泊まったホテルでは2軒ともおけさ音頭踊りの体験が催された。そう簡単に体得出来るものではないが、挑戦した。緊張すればするほど手も足もぎこちなく案山子みたいになってしまう。

 

七浦海岸  「ドライブインおとめ」での出来事

佐渡では古代から塩造りが盛んに行われてきた。ただしその製法は瀬戸内海などで行われてきた塩田法ではない。「佐渡の塩」は、七浦海岸の夫婦岩のすぐ近くの表層水を汲み上げ、佐渡風塩釜(さどかざしおがま)」にて海水を薪で長時間焚き上げてつくるのだ。その折に七浦海岸でとれる長藻(ながも)、玉藻、アラメを佐渡の塩と一緒に炊き上げて「佐渡藻塩」にしています。その説明をしながら、だから佐渡の塩は、藻塩は美味しいですと店員さんが、私達お客に向かって盛んにPRします。

「もしお??藻塩???・藻塩って和歌にも詠われていますよね。・・・焼くや藻塩の身も焦がれつつという和歌がありますよね。」とタカさんは半分独り言の独り喋りのつもりで店員さんに呟いた。

「あっ!それ百人一首の中にある歌ですね」澄んだ美しい女性の声が聞こえた。

「えぇっ!」タカさんは、当意即妙な返事に驚いた。

「百人一首の選者である藤原定家が選んだ自製の和歌ですね。」

「よくご存じですね。」 そう返答しつつ心臓が高鳴った。

この続きはいつかの機会に「風流夢譚」として書いてみたいですね。

註 

「風流夢譚(むたん)」は昭和35年、小説家 深沢七郎が月刊誌「中央公論」に掲載発表した空想怪奇小説。

彼はこの小説で、天皇家と天皇陛下に好意を持ちつつも徹底的に貶し、パロディックに暴露した。が、その彼の意志は国民には伝わらなかった。出版社の関係者が暴徒に襲われて死亡する事件が起きた。単行本としては出版されなかった。出版社による、自主規制である。

最後に

 

五木寛之の「朱鷺の墓」を読まれた方はいらっしゃいますかね。

色々思いを巡らせていく時、私を「朱鷺」という言葉に執拗な愛着を覚えさせ、抱かせたのはこの小説だったのかもしれない。NHKのテレビドラマではヒロインの芸妓「染乃」役を、憧れの女優「浅丘ルリ子」が演じ、ロシア人将校イワーノフ少尉を凜々しくも心優しき明治の匂いを感じさせる「高橋幸治」が演じた。当代随一の組み合わせだった。強烈な印象が今も残る。小説の発表は、1970年であり、タカさん大学二年生の時である。弘前大学は夏休み中に全共闘グループによる大学本部封鎖があり、大学による機動隊導入がされた。大学紛争真っ盛りの時代であった。大きな時代の嵐を感じさせる五木寛之の小説には心が騒いだ。「さらばモスクワ愚連隊」「蒼ざめた馬をみよ(直木賞受賞作品)」等を読み漁った。明日にでも大革命が置きそうな小説の雰囲気に酔いしれていた。

本題から外れるから止めます。

                    平成30年5月10日  脱稿

こんな石碑もありました

 

忘却とは

 忘れ去ることなり

忘れえずして

  忘却を

誓う心の悲しさよ

        菊田一夫   

参考年表

1826年  シーボルトが朱鷺の剥製を母国オランダに持ち帰る。
       朱鷺が新種として欧州の学会に紹介される。
1871年  学名をNipponia  jipponn とする事に決定。
1952年  特別天然記念物に指定される。
 1960年   朱鷺が国際保護鳥として選定される
1968年    キン(♀)が捕獲され、保護センターで飼育開始
1981年  佐渡で生息する野生の全ての朱鷺(5羽)を捕獲しペアリングをするが失        敗。
                  5月、絶滅したと思われていた中国で7話の朱鷺が発見。
1985年頃を中心

       中国の朱鷺との間にペアリングを試みるも全て失敗に終わる。
1994年  「トキのの森公園」がオープンされ、一般公開が始まる。
1995年(平成7年)

       ミドリ死亡。残ったのは「キン」一匹となり、日本の朱鷺は全滅することが確定する。
1999年(平成11年)
       中国から贈呈されたペアから始めて人工繁殖に成功する。
2003年  最後の朱鷺「キン」が死亡。  33歳。
2008年  10羽の朱鷺の自然への試験放鳥が開催
2012年  36年振りのヒナ野誕生が確認される
2016年  野生産まれ同志のペアから誕生したヒナが巣立つ。
2018年  284羽が棲息している。195羽は飼育中
      今年も飼育中の番からも野生の番からも孵化が報告されている。そして20羽を6月に放鳥する計画だそうです。

2018年05月07
       中国、日本にトキ提供へ 首相会談で合意見通し。11年振りである

 

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